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第382回 神の言葉を捨てているイスラエル

聖書=旧約聖書・詩編50編16-22節

16  神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え、わたしの契約を口にする。どういうつもりか。

17  お前はわたしの諭しを憎み、わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。

18  盗人と見ればこれにくみし、姦淫を行う者の仲間になる。

19  悪事は口に親しみ、欺きが舌を御している。

20  座しては兄弟をそしり、同じ母の子を中傷する。

21  お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお     前の目の前に並べて、わたしはお前を責める。

22  神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。

 

 今回は旧約聖書・詩編50編16-22節を取り上げます。この詩編は告発の詩です。作詞年代ははっきりしませんが、ヨシヤ王の宗教改革の時代、前8世紀頃と見ることが出来ます。この詩編は珍しい詩です。神賛美の詩ではなく、全編が神の民に対する罪の告発の詩となっています。

 この詩の作者は預言者伝統の中にいます。3節で「わたしたちの神は来られる。黙してはおられない」と神の到来を語り、その理由は4節「神は御自分の民を裁くために、……地に呼びかけられる」のであり、7節「わたしの民ょ、聞け、わたしは語る」と、神はイスラエルの民を裁かれると弾劾の言葉を語っているのです。

 神は、イスラエルの民に「お前は」と言います。「お前はわたしの掟を片端から唱え、わたしの契約を口にする」と言います。イスラエルの民は神の掟、神との契約を口にしている。神の言葉を知らないのではない。しかし、現実には「わたしの諭しを憎み」、「わたしの言葉を捨てて顧みない」と言います。背神の民と認定されたのです。

 背神の結果、イスラエルは民全体として悪事だらけとなっています。盗人と与し、姦淫の仲間となり、虚偽や欺きが横行し、兄弟でそしりあい中傷し合います。神はイスラエルのこの現状をしっかり見抜いて言います。神の論告求刑と言っていいでしょう。「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて、わたしはお前を責める」。

 これは、古代イスラエルの状況だけのことではありません。古代イスラエルと現代のイスラエル国とを決して同一視することは出来ません。しかし、現代イスラエル国家もまた「ユダヤ人の国」であり、「旧約聖書・タナク」によって国を維持しようとしています。現代イスラエルの人々も神の言葉を知らないのではありません。今でも多くのユダヤ人はシナゴ-グ(会堂)の礼拝で、十戒をはじめとする律法の書と預言書を朗読しているのです。

 その現代イスラエルの人々も神の言葉、神の掟を全く無視し、神の言葉を憎み、捨てて顧みないのです。パレスチナ人と言われる多くの土着の隣人の土地を強奪・植民し、多くの人々を虐殺し、平気で虚偽を語り、弱者を圧迫しています。悪事、悪逆だらけの国家形成をしていると言ってもいいくらいです。

 これに対して、詩編50編の作者の言葉が鋭く迫ります。「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて、わたしはお前を責める」と。神は、現在のイスラエル人のすべての営みを見ておられます。彼らも神を知らない人々ではありません。神の存在を認め、神の言葉に親しんでいます。ところが、この詩編が物語るように、はなはだしい背神の生き方をしているのです。

 神は明確に裁きを語ります。「神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない」と。神を忘れて生きる人たちに「わきまえよ」と言います。何を弁えるのでしょうか。「背神の現実」を弁え知れと言うことです。最後の悔い改めへの招きと言っていいでしょう。背神の現実を認めて、律法を弁えよという勧めの言葉です。

 「さもなくば」、神の最終的な審判がなされます。「わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない」。「お前を引き裂く」。その地から引き剥がし、分断されるというのです。この神の厳しい裁きをとどめるものはおりません。イスラエルは再び、追放されることになるでしょう。