折々のことばと写真Ⅴ

第41話 愚かさの極み、「松代大本営」跡に想う

 コロナ禍の緊急事態宣言下でしたが、閉じこもりに耐えられず遠出をしてきました。かねてから見ておきたいと願っていた「松代大本営」跡を訪ねてきました。「松代大本営」跡(松代大本営地下壕)と言っても、分かる方は限られるでしょう。しかし、記憶しておかねばならない戦争の狂気を証明する地です。第2次世界大戦の末期、本土空襲が始まり、東京と皇居への空襲が目前に迫ってきました。そこで日本陸軍部は、本土決戦のための最後の拠点として、秘密裏に固い岩盤を持つ長野の松代・象山の下に碁盤の目のように地下壕を掘り、皇居、大本営、政府機関、軍施設などを、この地下壕に移そうと企画実施した戦争遺跡です。昭和19年11月から昭和20年8月15日の敗戦の日まで、およそ9ヶ月間で全工程の8割が完成したということです。

 土地は強制的に買収し、当時の金額で2億とも言われる工事費を投じて、日本人の勤労奉仕隊、学徒動員だけでなく、朝鮮人労働者を強制的に大量動員しました。食糧事情も悪く、工法も旧式で、人海戦術で突貫工事を強い、正確には今もって分からないほどの多くの犠牲者を出しました。陸軍省で正式に起案・企画され、大本営幹部会で承認、東条内閣最後の閣議で了承された国家的工事でした。工事が進捗すると宮内省関係者も視察し、敗戦直前まで本気で「遷都」を考えていたようです。

 現在、この巨大地下壕の一部が無料公開されています。コロナ禍の最中で、見学者は私たち以外だれもいません。ヘルメットをかぶり、壕入口から下の方に降りて行きます。今日の自動車や列車の通行のために整備されたトンネルを見慣れた者にとっては異様な光景です。炭鉱の跡と言っていいでしょう。掘削機で削岩したままの形状です。裸電球に照らされた削岩したままの荒涼とした広い坑道がずっと奥まで続いています。網の目状にと言われるように黒々とした横への坑道が次々に現れてきます。寒々とした坑道が続くだけです。

 「こんなところに遷都しようとしていたんだ」と思うと、愕然としました。「貧すれば鈍する」。一国の歩みを「バクチにかけた」国の指導者たちの精神の在り様に暗然としました。ここに皇居を持ってこようとした。ここで一国の経営・指導をしようとした。ここで本土決戦の指揮をとろうとした。「惨め」という以外ない。愚かさの極みです。合理的な思考も、自尊心も、国民への思いやりも、なにもかも「ない」のです。あるのは、すべてを犠牲にして国体を護持し戦争を継続する意志だけです。このむごい継戦意志によって、沖縄戦が、広島・長崎の原爆投下が、起こったのです。戦争指導者たちの愚かさと狂気にあきれ果てました。「正気の沙汰」ではありません。

 戦争はあってはならない。起こしてはならない。戦争という紛争解決の手段は、どれほど賢明な判断のように思えても狂気です。このような愚かさと惨めさへと突き進む。ここは戦争の愚かさと狂気の証拠です。多くの方が見て、感じて、ほしいものです。今回の花は「シャスターデージー」とします。壕の入り口に供花のように咲いていました。(2021/6/5)

第42話 「ホームレス歌人」を思い起こして

 現在、コロナ禍の中で経済的な格差が広がり、分断と貧困とが増大しています。新聞記事の中にも人々の悲鳴のような声が記されています。政権を担当している人たちの耳には到達していないのでしょう。悲しいことです。

 リーマンショックで銀行や証券会社が倒産し、経済が大きく失速・縮小した時代がありました。新宿や浅草などで炊き出しがなされました。その時代、2008年12月頃から1年ほどの間、朝日新聞の歌壇欄に「ホームレス歌人」と言われる人が登場し、鮮烈な歌が一閃の光芒を残して去りました。深い感慨をもって読みました。あの人はどうしているだろう。コロナ禍の中で、同じような炊き出しがなされています。「ホームレス歌人」を思い出しました。

 わたしは今、暇で図書館通いをしています。先日、図書館で除籍本の展示があり、「自由に持っていってください」とのことでした。覗くと「短歌研究」(2010年10月号)があり、第28回現代短歌評論賞を受けた「或るホームレス歌人を探る……響きあう投稿歌」(松井多絵子)が掲載されていました。こんな論文があることも知りませんでした。持ち帰って読むと、当時の感動がよみがえりました。朝日歌壇に掲載された公田耕一というホームレス歌人の40首のすべてを採り上げ、解説と共に、それに応答して朝日歌壇に掲載された返歌を採り上げ、当時の朝日歌壇の中でなされたホームレスを中心とした「貧」に対する共感と心温まるコミュニケーションの広がりを描き出していました。

 同じ図書館の書架で「ホームレス歌人のいた冬」(三山喬著)を発見しました。これは歌論ではなく、ジャーナリストによる、ホームレス歌人「公田耕一」氏の投稿歌40首と応答歌から氏の身元の探索物語・ルポルタージュです。横浜のドヤ街でホームレスの人たちから、福祉関係者から、歌人の心理状況から、地を這い訪ね回っての労作です。探偵小説を読むようなスリルがありました。結論として、「公田耕一」はペンネームで、確かに存在の影があるが捕捉することは出来なかったというものです。広がりのある社会時評でもあります。

 リーマンショック時に劣らず、現在はコロナ禍の中で、多くの路上生活者が生じています。「公田耕一」氏ほどの歌人が歌壇を賑わせてはいませんが、共感と感動があちこちでなされているだろうと思っています。わたしは今も、朝日歌壇を読み続けています。詩心、歌心などとは無縁の首相官邸や霞ヶ関でも、新聞などに載る悲鳴の声、うめき声に耳を傾けてほしいものです。今回の花は「ヤマボウシの花」とします。かつてのホームレス歌人への共感をもって選びました。(2021/6/11)

第43話 「核兵器禁止条約」の署名・批准を急げ

 2021年7月7日の朝日新聞に1ページ全面の意見広告が掲載されました。「核兵器禁止条約……日本政府も署名・批准を」という135人の意見広告です。これへの賛成の応答です。これだけの各界の指導者たち、その背後にはもの言えぬ多くの人たちがいます。この人たちが、今ようやく政府にもの申しているのです。

 日本は唯一の被爆国です。広島と長崎へ、米国によって初めての原子爆弾が投下され、多くの犠牲者が生じ、被爆者は長い間苦痛を味わってきました。毎年、広島と長崎で平和と核廃絶の願いをもって式典を行い、核廃絶を望む決意を宣言してきました。その中で、ようやく2017年7月7日、国連総会で「核兵器禁止条約」が採択され、86カ国が署名しました。この日を覚えての今回の「意見広告」でした。今年2021年1月22日に、50カ国(現在54カ国)の批准をもって条約は発効しました。核兵器の開発、実験、製造、備蓄、委譲、使用、威嚇使用の全面的・包括的な禁止と廃絶を求める条約で、今や世界の声となっています。

 ところが肝心の日本政府は、この条約に賛成の署名も批准もしようとしません。むしろ、条約作成の段階から反対し続け、不参加を続けてきました。唯一の被爆国でありながら国民感情を無視し、被爆者の想いを受け止めず、核廃絶のため努力をする人たちを無視しています。アメリカの意向を忖度し、国民の真剣な願いを葬っているのです。アメリカの核の傘に身を寄せ、あわよくば自分も核武装しようとプルトニュームを蓄えているのです。

 核兵器禁止を訴える国民の声を代弁せず、安保関連の法制変更を強行し、憲法9条を改変しようとしている日本政府は、どちらを向いているのでしょうか。もはや日本の国民を正当に代表する政府ではなくなっています。残念なことは、日本の報道機関、ジャーナリズムが、これらのことを真剣に採り上げないことです。核兵器禁止条約の全体構成も伝えられていません。ジャーナリズムも失格です。もっと積極的に危機感をもって国民に向かって訴えてほしい。まだ間に合います。核廃絶のために声を挙げ、立ち上がりましょう。今回の花は、世界の平和を願って「コスモス」とします。(2021/7/9)

第44話 コロナ禍とオリンピック

 2020大会(オリンピック)も、いよいよ終盤になりました。菅首相はオリンピックについて、国会で「安心安全の中で行う」と繰り返し誓って開催を強行しました。そして、無観客にして、国民には外出せずに、家でテレビで応援することを求めました。その後しばらくの間は、ワクチンが浸透する、人流は増えていないと、強弁していました。

 ところが、実際に2020大会が始まると、首都圏では一気に新型コロナの感染者が急増しました。全国的に増大し、緊急事態宣言を拡大し、全国的に蔓延防止対策を出しましたが手遅れです。医療関係者が悲鳴を上げています。首相による「自宅療養」の要請とは、医療の逼迫状況を示すものではなく、すでに医療崩壊が起こっていることを示しているのです。組織委員会では選手や関係者の中からの感染者については一切公表していませんが、選手、関係者、ボランティアの中からも相当数の感染者が出ているようです。

 これは決定的に菅政権の大きなミスです。一方で、国家的「お祭り」をする。オリンピックは単なるスポーツ大会ではなく、国家的威信をかけた国家の「祭り」なのです。他方で、家から出るな、店閉めろ、出歩くなという政府の要請、メッセージ。完全に矛盾していることに、どうして多くの人は気付かないのか。一方で「祭り」をし、他方で「出てくるな」とは、正気の人間の語る言葉ではありません。人流が増えるのは当然、飲食店が賑わうのも当たり前のことです。

 今回のオリンピックで、日本の「メダル・ラッシュ」で、テレビを見る多くの人は素朴に喜んでいます。マスメディアも熱く報道しています。しかし実は、国際的なスポーツ大会としては不公平極まりないのです。日本人選手は事前の十分な練習が出来ました。しっかりとコーチ体勢に支えられて、一部は選手村に入らずにホテルで快適に過ごしています。対して、外国人選手はワクチン接種、隔離期間があり、予定した練習地での十分な練習期間が奪われ、不十分なコーチ体勢、選手村での不自由な囲い込みの中でイライラした生活を強いられています。これでも公平な競技であると言えるでしょうか。アスリートとしての立ち位置が異なっているのです。これを指摘するマスコミはほとんどありません。

 まもなく秋には衆議院の解散があります。9月になるか、10月になるかは分かりませんが、必ず行われます。野党がしっかりして下さい。政権奪還のチャンスです。小異にこだわらず、大胆に互いに譲り合って、まっとうな政治をすることのできる政権を構築してほしいものです。今回の花は、夏の花「ひまわり」とします。野党の活躍を見つめています。(2021/8/7)

第45話 「鎖国」をしてはならない

 先日、スリランカ国籍の女性が名古屋出入国管理局の施設内で、病気であるにも関わらず入院もさせず、非人道的な取扱いの中で死亡した事件が起こりました。このようなことは、実は今までにも数多く起こっています。難民や移住者を受け入れない強固な国策の故と言っていいでしょう。

 日本は明治維新によって「開国」したことになっていますが、真の意味では決して開国していなかったのです。「鎖国」のままでした。「鎖国」は、国家的なことだけではありません。個人の心の中にもあります。隣人を受け入れない心です。人を憎悪し、差別化し、心を閉ざし、内に籠もり、時に激しく攻撃する。近隣住民の中にも、社会の中にも、「鎖国」はあります。日本人の中に根強くある意識です。毛色の変わった存在を排斥し、仲間内だけの「和」を崩そうとしない。「和」を崩すものに対しては見せしめをし、村八分にする。ここからヘイトスピーチが出てきます。

 その頂点に日本国が存在しています。「神の国」「美しい国」という美名をもって、単一民族の幻想を語り、少数民族の存在を否定し、難民を受け入れない。労働力不足を近隣諸国からの出稼ぎに頼っても国民として受け入れない。戦前には帝国臣民として徴兵し強制労働を強いても、戦後は一転して「日本国民ではない」と切り捨てる。非人間的な入管業務を続けていても、政治も行政も我関せずです。それで「先進国でございます」と言う。これが日本の国の在り様です。この基本にあるのが「鎖国」です。明治以降、一応、開国しているようですが、基本的にはなお「攘夷」と「鎖国」が続いている。「鎖国」を継続させるために、擬態として「開国」しているように見せかけているに過ぎません。

 多くの日本人は、この国が渡来人、外来人によって発展してきたことを忘れています。縄文人の中に稲作文明を持った弥生人が渡来します。中国から漢字文化と律令が伝えられて、奈良、平安の文化が花開きます。朝鮮半島を通して鉄器や馬具、陶磁器などが伝来します。渡来人が日本文化を形成したのです。漢字も、ひらがな・カタカナも、仏教も、渡来人によってもたらされました。古代だけではありません。南蛮文化も深く浸透しています。銃器や医薬、科学的知識は西洋由来です。冷静に考えたら「外から貰っていないもの」は、どれほどあるでしょう。「万葉集」は日本的だと言われますが、万葉仮名はまさに漢字なのです。思考の根底にある文字そのものが、渡来ものであることに気付かねばならないのです。

 日本という国は、「鎖国」しては成り立ちません。心の底から「開国」し、多くの隣人を受け入れることによって成り立つ国であることを知るべきです。難民を積極的に受け入れ、多くの国々からの働き手を喜んで受け入れ、定着させ、多様な文化を認め合う国造りをしていくことが求められています。今回の花は、やさしく優美に咲くカトレアとします。(2021/8/15)

第46話 国会を開きなさい

 今回は、国会召集について記すこととします。現在、自民党の総裁選の真っ最中ですが、国会は開かれていません。安倍内閣では98日間にわたって野党の国会召集の要求を無視し、臨時国会を開会したかと思えば、冒頭で解散を強行しました。菅政権も臨時国会の請求を無視して2ヶ月余になります。憲法53条の後段に「いずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その招集を決定しなければならない」と、あります。現状は不作為による明白な憲法違反です。

 自公政権は、民主主義と憲法に基づく政治と行政を踏みにじり、手前かっての暴政をしているのです。コロナ禍の中にあるにもかかわらず、マスコミもこのことについて深い関心を示していません。時折、新聞が取り上げることもありますが、テレビなどではほとんど取り上げられません。公文書の破棄、虚偽答弁、桜を見る会の問題、学術会議への任命拒否、後手後手のコロナ対策、等々については国民的な怒りが現されていますが、もっと大事なことです。

 コロナ対策と国民の生活と経済について真剣に語り合うべき時に、最も大切な「国会召集」がなされないことへの国民の深刻な怒りが、見当たらないのです。安倍さんも言葉を失っていました。菅さんは最初から言葉を持っていなかったようです。言葉で説明し、言葉で語りかけ、訴えることが出来ないために、数を頼んで押し切り、言葉での勝負を拒否しているのです。これは言論の府、討議の府である国会の拒否なのです。自身の国会議員たることを否定しているのに等しいのです。我が国、最大の危機にあります。

 コロナ禍も深刻ですが、コロナ禍は数年の内には収束するでしょう。しかし、国会無視の風潮、国会を開かない違憲状況をも恐れない自公の気風は、数年で終息するものではありません。自公政権は国民主権をなめきっています。言葉で丁寧に解説し、言葉で訴え、言葉で議論を尽くすことの出来る風土を回復しなければなりません。まもなく、総選挙となります。国会無視に対する怒りをもって投票しようではありませんか。今回の花は、秋の季節に華麗に咲くダリアとします。移り気、不安定の意味もあるようです。政権交代を祈ります。(2021/9/22)

第47話 怒りをもって投票に行こう

 衆議院が解散されて選挙戦の最中です。以前からの最も大きな疑問は投票率の問題です。率直に言うと、日本では「なぜ、怒りがないのか」、「投票権がありながら、なぜ、不満や怒りを投票で示さないのか」ということです。香港では、若者たちが怒りを表明し投票で示していました。台湾でも中国の人権侵害に対する怒りを投票で表明しています。アメリカでもラストベルトの貧しい白人たちの怒りがトランプという怪物を大統領に押し上げました。他の国々では貧困や権利の侵害に対する民衆の怒りが投票行動に現れているのです。

 現在、日本は、長い間の自公政権の失敗や官僚主義、新自由主義の政策を実施した結果の貧困層の増大、格差拡大、医療の貧困で苦しんできました。その上に安倍・菅政権の新型コロナ対策の失敗で生活困難に陥り、事業に失敗し、大学を中退し、命を絶つ人も多くなりました。生活困窮者が増大しています。ジェンダーの不平等も放置されています。これだけ苦しめられても、国民・民衆の中に怒りが見当たらない。

 これだけ苦しめられても、政治と行政に対して怒りが爆発しない。テレビなどマスメディアには、現状に対する不平不満、恨み、嘆きや批判がグチグチと語られています。しかし、それが民衆の怒りとなり投票行動となって現れないのです。日本はまだ割合公正な選挙が行われていて、選挙結果によっては政権交代が起こりうるのです。ところが前回の総選挙では、20代、30代の人たちの投票率が最低で30-40%台です。全体でも53%強です。投票権を持つ人の半数近くが棄権している。若者世代では70%近くの人が棄権しています。

 低い投票率では、権力者側は国民を馬鹿にします。何をしても、どんな愚かな汚いこと、不正義をしても、国民は怒らない、と。実際にそうなっています。政治や行政に対して不平や不満を語り、恨みや嘆きを街かどで語っても、つぶやいても、それだけでは意味を持ちません。政治家は失敗の責任を取りません。やりたい放題をしています。

 衆議院選挙の今こそ、政治と行政の在り方に対する積年の恨みと怒りを忘れてはなりません。ジェンダーの不公正についても怒りを持つべきです。その怒りを暴力行為やテロではなく、投票行為で現さねばなりません。いのちと生活を大事にし、正義と公平を貫き、近隣諸国と平和に交際する政治の基本を回復させねばなりません。政治と行政に対する怒りをもって投票しようではありませんか。今回の花は、マリーゴールドとします。絶望と悲しみの表明です。悲しみを克服しての政権交代を祈ります。(2021/10/22)

第48話 品格ある国への回復を

 2021年11月12日から18日にかけて四国を訪れてきました。その旅の終わりに鳴門市にある大塚国際美術館で1日を過ごし、翌日帰りがけに同じ道筋にある「鳴門市ドイツ館」と「賀川豊彦記念館」を見てきました。特に「鳴門市ドイツ館」では、国家の品格について考えさせられました。

 「鳴門市ドイツ館」となっているのは、1917年から1920年までの4年間ほど「板東俘虜収容所」であった跡地です。今日、知る人がすくなくなっていますが、記憶に残すべき大切な遺産です。第一次世界大戦時、連合国側となった日本は、ドイツ領青島を攻撃し、多数のドイツ軍兵士を捕虜とし、この収容所に収容しました。約千人の捕虜を人道的に取扱うだけでなく、地域の人たちとの暖かな交わりが生まれていたのです。

 多様な職種の人たちが兵士とされていました。この捕虜とされた人たちから地域の人たちが、パン作り、チーズ作りなどを学びます。極めつけは、収容所内で捕虜となった兵士たちによってベートーヴェンの「交響曲第九」全曲の日本における初演がなされたことです。自由に楽譜や楽器を取り寄せられただけでなく、自分たちでガリ版による多色刷りの新聞も作りました。戦争が終わると、帰還船を用意して故国へ丁重に送り帰しました。そのため、日本に残留を希望した者が60名余も出たほどです。今日に至るもその時の子孫の交流があります。

 第二次大戦、アジア・太平洋戦争時には、これが真逆になっていたのです。フィリピンにおける「バターン死の行進」、捕虜による泰緬鉄道の建設に伴う膨大な死者と怨念、各地での捕虜の虐殺が相次ぎます。BC級戦犯に問われたほとんどが捕虜の取扱いと言われています。「鬼畜米英」と言い、東条首相による戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」などから、玉砕の思想を生むと共に捕虜虐待、虐殺の思想を生んでしまったのです。

 わずか20年ほどの間に、国家の品格が真逆になっていたのです。人の命を尊び、人格を敬い、人を人として遇する。この大事なことが、国の指導者からも、民衆からも、失われていたのです。あまりにも大きな落差です。敗戦後、わたしたち日本人は、この重大な基本的人権の侵害と国際規約違反についての深刻な反省、悔い改めをしないで、簡単に自由や民主、平和を口にしてきたのです。現在、基本的人権の課題が揺れ動いています。再び、隣人たち、近隣諸国の人たちに対する憎悪への道を歩み出そうとしているのではないでしょうか。今回の花は、大塚国際美術館の庭に咲いていたケイトウとします。「友愛、博愛」をもって、世界を歩んでいこうではありませんか。(2021/11/26)

第49話 闇に葬られないために

 2021年、今年最後の「折々のことばと写真」とします。1年を振り返ってみて「今年は何もなかったなあ」という虚しい思いだけです。オリンピック・パラリンピックもあった、総選挙もあったと数え上げれば、幾らかの出来事は思い浮かびます。しかし、そのすべてに虚しい思いがしてなりません。

 首相は、安倍さんから菅さん、さらに岸田さんへと目まぐるしく変わりました。「聞く耳を持つ」という岸田首相に代わりましたが、安倍さんたちから続く負の遺産が解決を見ることはありません。第二次安倍内閣から続く加計学園の問題、森友学園の問題、桜を見る会の問題、いずれも闇から闇に葬り去られようとしています。桜を見る会の問題では検察は起訴をせず、森友学園問題で財務省の決裁文書の訂正を求められた近畿財務局の赤木さんが自死した事情の開示を求めた妻の訴訟を「認諾」という禁じ手で蓋をしてしまいました。

 菅政権時代には日本学術会議の任命拒否が起こりました。この問題も解決していません。外国人女性に対する入国管理局の非人道的取扱いの問題もありました。コロナ禍にあって、PCR検査を絞り、医療体勢が逼迫し、破綻していても、保健所や公的病院の増設には踏み切りません。後手後手に回り、国民の負担を増やしています。政治と行政のトップの人たちには、国民の本当の悩みや痛みは分かっていないのでしょう。

 最近の総選挙によって憲法事情は大きく後退してしまいました。これが一番やっかいです。改憲容認の政党が増えてしまった。九条改変に反対している政党でも、どの程度真剣なのか、真剣さが問われています。フクシマの原発事故の汚染水を海上放出するとのことです。沖縄・辺野古の沖では強引に埋め立てが続けられています。核兵器禁止条約については耳を貸しません。ジェンダー平等の問題・選択的夫婦別姓にも取り組もうとしません。二酸化炭素の削減についても日本は世界の笑いものになっています。いったい、この国はわたしたちが税金を払って支持していくだけの値打ちのある国なのでしょうか。年末に当たって、考えあぐねています。今回の花は、パンジーとします。憂愁が解消されたいものです。(2021/12/31)

第50話 国の根幹が問われています

 2022年の最初の「折々のことばと写真」とします。昨年末から新聞・テレビなどのマスコミで報じられている国交省の基幹統計の書換え問題について記すこととします。わたしは理数系のことについて口を差し挟むだけの知識は持ち合わせていません。

 しかし、国の基幹統計の大事なことくらいは十分に分かります。基幹統計と言われるものが53ほどあると言われています。各省庁が管轄して集計し、公表します。それが、国や地方自治体の予算作成、政策立案の根拠となり、民間の事業の経営判断、国内外の学術研究などの基本資料になっていることくらいは承知しています。統計には、当然、幾分かの誤差はあるでしょう。しかし、客観的な指標として多方面から用いられものです。

 この基幹統計の一つ、「建設工事受注動態調査」が20年ほどにわたって故意に書換えられ、二重計上されていたとの報道です。しかも、地方自治体の公務員たちをも巻き込んでの省を挙げての書換えということです。問題化しても続けられていました。唖然とさせられます。10数年前にも厚労省での「毎月勤労統計」が書換えられていたということもありました。法的な正確さを担保するために虚偽記載に対しては罰則が科せられているとのことですが、何ともお粗末な有り様と言う以外ありません。

 この国は、「どういう国」なのでしょう。国家公務員の職業倫理が上から下まで崩壊しているのです。省庁の責任を担う与党の政治家からはっきりした返答を聴くことが出来ません。これでは客観的な合理性を持つ予算や政策が成り立たないのです。他国との正確な比較検討も出来ません。国としての信用度がなくなっているのです。81年前、国家の資源統計、国力についての客観的合理性に基づく検討結果を放擲して、戦争へとのめり込んでいった戦前の「大日本帝国」の有り様と似てきたのではないでしょうか。与野党の国会での真剣な論議がなされることを切望しています。今回の花は、高潔さと気品を示す白梅とします。(2022/1/21)