折々のことばと写真Ⅱ


第11話 わたしの祈り

 この6月21日には参議院議員の選挙があります。新聞などの報道では早々と、自民党がしぶとく勝ち、与党での3分の2が続くという予想がなされています。戦後70年余の平和の歩みを支えてきた日本国憲法第9条が危機にさらされることになります。これだけは、なんとしても避けたいというのが、わたしの祈りです。

 安倍自民党政権は、現憲法を危機にさらしているだけでなく、庶民の生活をも脅かしています。年金問題しかり、労働者の給与が目減りし、しかも10月には消費税が10パーセントになります。これだけ庶民が痛めつけられても、自民党政権が揺るがないというのは不思議でなりません。多くの人は惰眠をむさぼっているのでしょうか。公文書は改ざんされ、議会で虚偽が語られ、議会の招集要請すら応えない。民主国家の根幹が揺らいでいるのに、不思議なことです。

 アメリカのトランプさんに寄り添って、アメリカ製の超高額な兵器を爆買いし、沖縄で、秋田で、国民をないがしろにする安倍自民党政権は退陣してほしいというのが、わたしの切なる祈りと願いです。最後に、わたしが高校生の時代に読んで感動した聖書の言葉を記し、わたしの祈りとしましょう。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2章4節)。今回の花は、北海道旅行で採ってきた平和の想いを表すデ-ジー、雛菊とさせていただきます。

第12話 赦しと愛の余地を

 先日、6月21日に参議院議員の選挙がありました。結果として、自民・公明の与党での3分の2ということがなくなったとのことで、ひとまず胸をなで下ろしています。しかし、まだまだ日本国憲法第9条が危機にさらされている状況は変わらないでしょう。9条に何かが加えられたり、改悪されないように、祈り続けてまいります。

 最近思うことは、人のいのちが軽視されていることと、憎しみが憎しみを生み、報復が当たり前の時代になっていることに、気が重くなるのです。日本では、悪質な犯罪そのものは全体として減少しているようですが、突出して激しい憎悪や行き当たりばったりの傷害事件や殺人事件が続いています。京都のアニメ制作会社で34名の人命が失われてしまいました。ずいぶん昔に新宿の歌舞伎町の火事で多くの人命が失われましたが、それ以来の多数の死傷事件ではないでしょうか。悲しい出来事です。

 今回の京都のアニメ制作会社の事件では犯行に至った動機などがまだ明らかではありません。しかし、このような多数ではなくても、殺傷事件が相ついでいます。最も深いところで、社会の中に不満や怒り、憎しみが深く内蔵されているのではないかと思っています。それが最も弱いところで噴出してきているのではないかと考えています。

 人の世には「赦しと愛」が必要なのではないでしょうか。憎しみに対して憎しみの対応ではなく、憎しみの彼方に「赦しと愛」を望み見る。こんな一筋の道を社会の中のどこかで見ることが出来るならば、少しずつ人の世の生き方が変わってくるのではないでしょうか。わたしたちの心の中にも、赦しと愛の余地を少し空けておきたいものです。今回の花は、先月の北海道旅行の中で撮ってきた「ハマナシ」とさせていただきます。悲しく美しく自生していました。

第13話 基本に立ち帰って協議し直すこと

 今日、日本と韓国との関係がたいへんギクシャクしている状況を悲しむ者の一人です。わたしはキリスト教会の関係者として、日本と韓国の教会関係を取り結ぶために、何度か訪韓し、韓国に友人も多くいます。日韓の友好関係を損なってはならないと願う者の一人です。

 しかし、日本と韓国の間では、竹島・独島の問題、従軍慰安婦の問題、元徴用工の問題、貿易の規制の問題、など多くの問題で出口が見つからない閉塞状況が続いています。それに伴って相互に「愛国」というナショナリズムが絡み合い、出口の光が見えません。やったら、やり返すという悲しい報復合戦が続いているのです。

 これは、わたしの私見ですが、根本的には1965年の「日韓基本条約」に問題があるのではないでしょうか。この「日韓基本条約」をもう一度、誠実に見直すことしかないでしょう。この基本条約が成立したのは、日本が高度経済成長に向かう時期、韓国は朴正熙軍事政権の時代でした。ある意味で「金で解決した」という側面があります。個人補償の問題も話し合われたようですが、きちんとした個人補償はなされなかったのではないでしょうか。韓国国内内部の問題だと言って済まないでしょう。徴用工の問題や慰安婦問題は、当時まだ霞んでいたのではないでしょうか。国家間の基本条約と言っても歴史の産物です。状況の変化を認めて、基本に立ち帰って、歴史を正面から受け止め、虚心になって協議し直さねばならないのではないでしょうか。

 最も近しい隣国との関係がギクシャクすることは避けねばなりません。まして、ナショナリズムに委ねてはなりません。ピンチはチャンスです。日本と朝鮮半島との交流の長い歴史を踏まえて、これからの両国の親しい関係を築き直していく良い機会です。行きがかりを捨てて、傷がいやされることを、切に祈り求めています。今回の花は北海道旅行の途次、撮ってきた「シャクヤク」とします。しなやかで優しい姿は見る者の心の傷をいやしてくれるのではないでしょうか。

第14話 言論と表現の自由を大切に

 名古屋で開かれていた「あいちトリエンナーレ2019」の中での「表現の不自由展・その後」展が、開催たった三日で閉鎖に追い込まれたということです。理由は、韓国の従軍慰安婦を表すと言われる「平和の少女像」が展示されたことにあるようです。多くの問い合わせ、激しい攻撃、行政の意思などがあって、閉鎖という処置に追い込まれたようです。

 たいへん残念なことです。自治体や政府の公的な資金が用いられ、公的施設で開かれていることが問題になったようですが、これこそ問題なのではないでしょうか。政府や時の権力者の意向に添わないもの、あるいは反対のあるものは公的施設を使えない、公的資金をもらえないということでは、検閲であり、思想・信教の自由、表現の自由など憲法が認める自由な人権が犯されることなのです。明白な憲法違反です。憲法21条「① 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを犯してはならない。」

 反対があるから、テロなどの危険が予想されるから、ということで安易に作品の展示を取りやめることは、反対運動をする人たちの思い通りになることを承認してしまうことです。元々、芸術や文芸は本来的に反権力です。権力への批判こそ、創造的な作品の発想の原点なのではないでしょうか。時の権力者の意向に添わないのは当然のことです。反権力を容認することこそが、権力者側に求められているのです。今回の事件は、表現の自由が、どのようにして不自由になっていくのかを、適切に示してくれた事件と言えるでしょう。

 自由な作品の展示が抑圧される状況は、アジア・太平洋戦争直前の抑圧された社会状況を彷彿とさせています。暗い不自由な時代の到来が予想されます。わたしたちは、しっかりと時代の流れにあらがい、抵抗し、表現や言論の自由の尊さを主張していかねばならない時に立ち至っています。今回の花は、わたしの実家の庭の片隅に咲いていた「ヤブラン」とします。強い草木の陰で周囲にあらがってひっそりと忍耐強く咲いていました。

第15話 花の命は短くて…

 この「折々のことばと写真」の頁の中で、花の写真を扱うことにしたため、あちこちに出かけて花の写真を撮るようになりました。花には季節があります。「あそこに、……の花が咲いている」という情報をいただくと、出かけていって撮ってきます。ところが、時を失してしまうことも、また多いのです。林芙美子の「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と語った言葉を思い出しています。

 今、わたしの祈りの課題となっているのは、沖縄の歴史と韓国の歴史です。両者ともに、旧「大日本帝国」の侵略による不条理と痛みを、今なお引きずっているのです。そして、今日の日本の多くの人たちは、この両者の歴史の深みの問題には目を向けようとはしていません。本当に苦い思いを飲み込まねばならないからです。

 沖縄の辺野古の埋め立ての問題も、沖縄の人々の心の内に深く突き刺さっている琉球処分、太平洋戦争の犠牲・捨て石とされたこと、今も捨て石状態が続いていることなどを受け止めないと、真の解決の道は見つからないでしょう。

 韓国との問題も、戦後の直近の歴史だけで考えてはならないのです。戦前の日本統治下で、どのような無体なことを強いてきたかを知るところから始まるのです。その怨念の積み重なりを解きほぐしていくところから、日韓の正常な関係の回復は始まっていくのではないでしょうか。

 今回の花は、月下美人とします。以前、我が家で育てていたものです。年に一晩だけ咲く花です。はかない優美な花です。花の命の短さを感じさせてくれます。

第16話 「反オリンピック考」

 最近は、テレビでも新聞でも、ことあるごとに、来年に迫った「2020東京オリンピック」のことを報じています。来年に迫っていますから、今さら「オリンピックの開催を止めろ」などと言ってもまったく聞かれないでしょうし、意味のないことかもしれません。しかし、どこかで、本当に小さな声ですが、今日、オリンピックを東京で開催することへのいくつかの疑義を最後まで表明することも必要かと思っています。

 疑義の1つは、当初、2・11東日本大震災の「復興オリンピック」と言われていましたが、その意味をほとんど失っていることです。フクシマの原発はコントロールされていません。汚染水の処理や、溶け出した燃料棒の搬出・処理も出来ていません。何ひとつキチンとは復興していないのではないでしょうか。

 疑義の2つは、地球温暖化の時代、なぜ、熱中症で死者もでるほどの日本で最も暑い8月に行うのでしょうか。かつて1964年に行った東京オリンピックは、気候が安定している10月でした。アスリート第1では決してなく、「アメリカさん第1」なのではないでしょうか。

 疑義の根本にあるのは、今日、巨額な費用をかけての「オリンピック」が本当に必要なのかということです。アスリートたちのためには、各種スポーツの世界大会が目白押しです。今日のオリンピックは、かつてのナチスの「ベルリン・オリンピック」と同じように、「国威発揚」の最高の機会になっているのではないでしょうか。オリンピックの目的から外れています。

 わたしは今日、善意の人々でも、オリンピック運動に無批判に乗っかるのは、極めて危険なことではないかと考えています。時代の政治の動向に流され、大資本による略奪的な活動に手を貸すことになるのではないでしょうか。今回は「反オリンピック考」としました。今回の花は、6月に北海道の旭山三浦庭園で撮ってきた「フデリンドウ」とします。あまり人の来ない庭園の片隅で辛抱強くけなげに咲いていました。(2019/09/11)

第17話 「沖縄戦を知る事典…非体験世代が語り継ぐ」を読む

 最近、読んだ本の読後感想です。「沖縄戦を知る事典…非体験世代が語り継ぐ」(吉川弘文館、2400円)。わたしは昨年2018年の秋、1週間余にわたって、初めて沖縄を訪問し「戦跡巡り」をしてきました。その折りに、この本が出版されていたら大きな助けになったろうなあ、と思っています。読む事典で、編集・執筆者の全員が、戦後生まれの若い人たち、「非体験世代」ということです。そのため、体験者の証言・語りを元にした聞き取りを編集したものです。特色は、沖縄戦とその後の諸相ほぼ全体にわたってを網羅し、今日のわたしたち「ヤマトーンチュ」が考えねばならない点のすべてが指摘されていることです。

 昨年、訪問してきた多くの戦跡を彷彿と思い起こさせてくれると共に、この本を友にして、再度訪問し確認したいという願いが湧き起こるほどでした。学術研究としてのものではなく、実際の沖縄戦の地獄を体験したさまざまな人たちの「語り」を記し、まとめたものだけに現実の重みと言葉のリアリティを感じさせられます。日本の国体(天皇制)護持のための捨て石とされ、日本軍によって徹底的に収奪され、集団自決(強制死)へと追い詰められていった過程が浮き彫りにされています。また教育の恐ろしさも分かります。学校教育が沖縄の人々を軍国主義化し、「皇民化」していったのです。「日の丸、君が代」の強制、道徳教育に突き進む今日の学校教育の問題点も浮き彫りにされています。

 有事法制ができ、集団自衛権が合憲とされ、憲法9条が改悪されようとしています。日本は、再び、戦争への道を突き進むのではないでしょうか。世界を見ないで、成算を度外視して、狂気のように破滅に突き進むのが日本という国の有り様です。悲惨な歴史の経験を大切に語り伝えてほしいものです。今回の花は、「ひめゆりの塔」を思い起こしながらの「白百合」とします。(2019/09/27)

第18話 「私たちの家が燃えている」…地球温暖化対策の急務

 台風19号の大きな被害が、テレビで大きく報道されています。東日本大震災を思い起こすような洪水の氾濫、水没家屋などが、これでもか、と言うように映し出されています。死者、行方不明者の数も恐らく100人を超えるかもしれません。「この程度の規模」などと言えるものではありません。国会でも取り上げられて、予備費を充当し、さらに補正予算を組む方向で検討すると言うことです。いずれにしても回復・復旧のためには、相当の期間、相当の費用がかかることでしょう。

 これらの回復・復興の道筋と共に、もうそろそろ、わたしたち日本人も相当の長期的な道筋で根本的な課題について取り組まねばならない時に立ち至っているのではないでしょうか。台風の増大と巨大化は、地球規模の温暖化と切り離せません。台風だけではなく、わたしたちの日常生活の至る所に、地球温暖化の影響を見る時代となっています。「私たちの家が燃えている」と言って、スウェーデンの国会前で座り込みを始めて、気候変動・温暖化対策を求める若者たちの中心的な存在となった16歳のグレタ・トゥーンベリさんの訴えに真剣に耳を傾ける必要があるでしょう。未来を若者たちに残しておかねばならないのです。

 温暖化対策というと、日本では「原発」・原子力発電が登場してしまいますが、これは温暖化以上に地球環境を決定的に破滅させてしまう危険なものです。太陽光、風力、地熱、水力などの再生可能エネルギーに頼る以外ないでしょう。同時に、社会全体の在り方を変革していくことも必要でしょう。ものに溢れ、豊かさと成長を追求し、収奪する資本主義社会の在り方から、互いに譲り合い、「足ることを知る」、地球を1つの「家」と見る社会へと、世界的な視野で社会を組み替えていかねばならないのではないでしょうか。今回の花は、調和と謙虚を花言葉とするコスモス(秋桜)とします。(2019/10/17)

第19話 「現人神」となる儀式について

 今年2019年5月1日に新天皇の即位「令和」が始まり、10月22日には「即位礼正殿の儀」が行われました。続いて11月14日には「大嘗祭」が行われることとなっています。昭和の時代にはあまりなかったことですが、若い人たちの中に「天皇ファン」「皇室ファン」みたいな人たちが出てきています。週刊誌では皇室の記事を競って載せているほどです。平成天皇の努力の結果かもしれません。

 しかし、わたしはこれらの一連の儀式に強い違和感を感じています。「高御座」は神武天皇の天孫降臨を現しているとのこと。日本の国の有り様が神道神話に根ざしていると共に、現天皇がその継承者であることを示したわけです。この後に行われる「大嘗祭」と共に、人が神となる一連の儀式と言っていいでしょう。人間宣言をしたはずの人が「神懸かる儀式」、現人神となる儀式と言えるでしょう。日本は神話の国でしょうか。

 天皇と皇族の人たちに「基本的人権」がないことが、わたしには気になっています。基本的人権を持たない人が、基本的人権を持つ日本国民統合の象徴であるとは不思議なことです。「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。この基本的人権・人の平等の道筋を踏み外すことなく、国の営みがなされていくことを切に祈る者です。今回の花は「悲しき思い出」という花言葉を持つ曼珠沙華(彼岸花)とします。天皇制が人の差別化と圧政の原点とならないことを願っています。(2019/10/26)

第20話 「ことば」の軽さについて

 最近は、政治家や大臣たちの無思慮な失言、放言が相次いでいます。辞任に追い込まれる場合も、そうならない場合もありますが、いずれにしても語られ、表現される「ことば」が軽くなっています。ツイッターなどでまったく違った人を犯人扱いし、誤った情報が世界中に拡散するようなことも起こっています。

 聞くに耐えないヘイト・スピーチが平然となされ、いろいろなところで意地悪、イジメがはびこっています。生徒同士のいじめだけでなく、学校の教師仲間でのいじめまで出て来ました。「絆」とか「寄り添う」と言う「ことば」が、至るところで飛び交いますが、実質を伴っていません。自分に都合のいい絆であり、利用できる者への寄り添いなのではないでしょうか。

 言葉は人と人を結ぶもので人間社会の帯のようなものですが、その「ことば」への責任が伴っていないために、社会が緩んでいるのです。責任が曖昧にされている昨今ですが、これは決して最近になって始まったことではないと思っています。最大の無責任は日本国家の太平洋戦争の責任の取り方です。宣戦布告の「御名御璽」の最高責任が取られることなく、うやむやにされました。その後、日本の国は平然と「ことば」への責任が問われることなき国になったのです。安倍首相の政治姿勢に至って緩みが極まってきたと言えるでしょう。

 聖書では「言は肉となった」(ヨハネ福音書1章14節)と記されています。語られ、約束された事柄が、肉となる、現実となったということです。「ことば」が虚しく宙を舞うのではなく、現実となるような重みを持って語られる世界となるように祈り、行動してまいりたいものです。わたしたちの語る言葉が重みを持つものでありたいと願っています。今回の花は、「ことば」への信頼を求めてスイレン(睡蓮)とします。(2019/11/7)