聖書=マルコ福音書7章36-37節
イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
今回はマルコ福音書7章36-37節を取り扱います。たいへん短い個所ですが重要な課題を含んだところです。「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた」と記されています。
「このこと」とは、直接的には直近でなされた「耳が聞こえず舌の回らない人」をいやした出来事を指していると言って良いでしょう。もう少し拡大すると、ガリラヤ湖畔でのユダヤ人への伝道だけでなく、ティルスの地方、デカポリス地方などの異邦人の多く住む町々、村々で行われた恵みのみ業をも含めての意味でしょう。主イエスは、これらのことをあまり語るなと言われたのです。ご自分の名声の拡大、伝道とも言えることを、なぜ、主イエスはとどめたのでしょうか。
主イエスは、ユダヤ人、異邦人を問わず、多くの人たちに神の国の福音を語り、病む者をいやされました。これらの出来事を見た「人々」、群衆と言われている人々の驚き、感動、喜びが、この個所の背景にあります。主イエスの宣教といやしの出来事を見た人々は、そこに旧約預言者・イザヤの預言の成就、メシアの到来を見たと言って良いでしょう。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(イザヤ書35:5-6)。人々は、主イエスのいやしにおいて、メシアの到来を見たと言っていいでしょう。
では、なぜ、主イエスは人々に「だれにもこのことを話してはならない」と口止めされたのでしょうか。マルコ福音書1章の重い皮膚病の人をいやしたところで、いやされた人は主イエスが禁じたにもかかわらず言い広めたため「公然と町に入ること」ができなくなった出来事とは意味が異なります。その時は、主イエスの活動に迷惑をかけました。ここではそのようなことはありません。混同してはなりません。主イエスのなさった恵みの出来事が驚きをもって拡大していっただけです。
主イエスが人々(群衆)に「口止めをされた」理由は、もっと根源的なところにあります。それはメシア理解の違いと言っていいでしょう。群衆は「耳が聞こえず舌の回らない人」をいやされた出来事を通して、主イエスにイザヤ書35章が語る解放者であるメシアの到来を見たと言っていい。ここにも確かに、1つのメシアの到来が物語られているのですが、主イエス自身はもう1つの全く異なるメシア像を示そうとしておられるのです。これこそ、最も大切なメシア像なのです。
それが、イザヤ書53章に記されている「受難のメシア」像なのです。このメシアは「輝かしい風格も、好ましい容姿もなく」、「軽蔑され、人々に見捨てられ」、「多くの痛みを負い、病を知っている」のであり、「わたしたちの病、わたしたちの痛みを」「担い、負った」のです。彼は、「神の手にかかり、打たれ、打ち砕かれ」ます。その理由は、「わたしたちの背きのため」「わたしたちの咎のため」でした。
主イエスご自身は、このイザヤ書53章に記されている「受難のメシア」像をご自身のこととして受け止められておられます。罪なきお方が罪人として裁かれ、苦難を受ける代償的贖罪のメシアこそ真のメシアなのです。この十字架の苦難のメシアを理解するところで多くの病む人たちを救うメシアが存在するのです。
イザヤ書35章の解放者としてのメシア(救い主)の姿は、イザヤ書53章の「受難のメシア」を土台にしていると言って良いのです。この苦難を受けるメシア像を理解しないところではメシアの誤解が起こります。やがて群衆と言われるユダヤの多くの人々は、主イエスにおいてメシアを見ることに失望し、主イエスから離れ、最後は主イエスを「十字架につけろ」と叫び出す結果となったのです。
わたしたちは、主イエスにおいて「何を」見るのでしょうか。新しいヒーローの誕生を見ますか。それとも、見捨てられ、卑しめられて、多くの人々の咎と病を担って苦難を受ける十字架の主イエスに、救い主・キリストを見ますか。わたしたち一人ひとりが今、問われているのです。