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第380回 「エッファタ」(開け)

聖書=マルコ福音書7章31-35節

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。

 

 今回はマルコ福音書7章31-35節を取り扱います。主イエスは弟子たちを連れて少し大きな旅行をしてきました。地中海沿岸の北にあるティルスからさらに北のシドンに足を伸ばし、再びガリラヤ湖の東側のデカポリス地方に帰ってきました。この地方はユダヤの地と言うよりも「異邦人」の多く住む地域です。主イエスは異邦人の地を巡回してこられたのではないでしょうか。

 そして、ガリラヤ湖畔に帰ってきました。このガリラヤ湖畔はデカポリス地方の「ガリラヤ湖畔」です。イエスが来られたということで、人々は「耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て」「その上に手を置いてくださるようにと願った」のです。いやしを求めたのです。求めた人々も「耳が聞こえず舌の回らない人」も異邦人であった可能性もあります。有名なヘレン・ケラーは三重苦でした。この人は目は見えたようですが、耳が聞こえず語ることが出来ない二重苦でした。人との交わりが困難でした。人との交わり、交際が出来ないことは大きな苦痛です。

 この二重苦の人が、どの程度の年齢になっていたかは記されていませんが、文章から判断すると、もう成人になっていたのではないでしょうか。今日では耳が不自由でもいろいろな意思疎通の手段がありますが、当時は何もありませんでした。子ども時代から長い間、人としての交わりから疎外され、孤独を味わってきたのです。

 主イエスは人々の求めに応じて、この二重苦の人をいやしますが、そのいやし方に意味があると言って良いでしょう。「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」ます。主イエスのいやしは見世物ではありません。超能力を誇示する場でもありません。病む人と向き合うために群衆から離れさせます。

 主イエスは二重苦に苦しむ人の「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」のです。「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」と記されています。「天を仰いで深く息をつき」とは、どういうことでしょう。二重苦に対する慨嘆、不条理に対する嘆きと言っても良いかもしれませんが、単なる慨嘆ではありません。主イエスの祈りです。この人は幼い時から耳が聞こえず言葉を失ってきた。この人の苦悩に対する深い同情と憐れみ、心の底から突き動かされる愛、神への切なる訴えが「天を仰いで深く息をつき」という言葉の中に込められているのです。

  「エッファタ」、なんという清々しい言葉でしょうか。「開けよ」という命令形の言葉です。暗黒に閉じ込められていた世界が、光の世界に向かって開かれたのです。神が天地創造の時、闇に覆われた世界に対して、「光あれ」と言われたのと同じ出来事が、今ここに起こっているのです。

 「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」のです。外界の音が聞こえてきました。人の言葉が聞こえてきて、交わりが始められていきます。今まで固まっていた舌がしだいに自由に動かせるようになりました。「はっきり話すことができるようになった」とは、意思疎通ができるようになったということなのです。

 この二重苦の人のいやしの出来事が教えることは、単なる「病のいやし」ではありません。神と人との交わりが回復したことの記録であることです。人は交わりによって生きるのです。主イエスは、孤独の闇の中にあったひとりの人を神と人との交わりの中に導き入れてくださった出来事なのです。