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第379回 溢れ出る神の恵み

聖書=マルコ福音書7章27-30節

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

 

 今回はマルコ福音書7章27-30節を取り扱います。24節からの続きですので、聖書をお持ちの方は7章24-30節をまとめてお読みください。「娘から悪霊を追い出してください」と頼んだ異邦人であるギリシャ人女性の懇願に対して、主イエスはどのように応えたのでしょうか。

 主イエスは言われました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と。この主イエスの言葉をどのように理解すべきでしょうか。この「まず」を、どのように理解したらいいのでしょうか。普通に考えたら「順序」として理解するでしょう。多くの注解者もそう理解します。神の恵みの受領にも順序があるのだ、という理解です。

 先ず第1に、神の恵みのパンを受け取るのは家の子どもたちである。子どもたちが十分に受け取って食べ飽きなければならない。まだ子どもたちが十分に食べていないのに、大事なパンを「小犬にやってはいけない」。ものには順序がある。神の恵みの受領には順序があるという理解です。

 また、主イエスが異邦人の女性の親子を指して「子犬」と言ったことに対する批判があります。「犬」とは、しばしば差別の言葉として用いられます。ここから、主イエスの中にも差別意識があったと見なす注解者も多くいます。主イエスも時代の中で生きた人です。主イエスの言葉や考え方、そこから出てくる「たとえ話」の中にも時代の風潮を色濃く受けていることがあるのは確かです。

 この個所で大事なことは、主イエスの言葉を受け止めた女性の言葉です。彼女が、主イエスの語った言葉をどう理解したかが、この個所の理解の鍵となっています。「ところが、女は『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』」と応えています。この女性は、食卓のパンの配分について第1,第2という順番として理解していません。そして「子犬」という言葉も受け入れています。差別用語として受け取っていないと言って良いでしょう。

 主イエスの言葉を受け止めた彼女の思いの中に描き出されているのは、一家の豊かな食卓の風景なのです。食卓を囲んで多くの人たちがいます。子どもたちもいます。子犬も集まっています。確かに、異邦人を「子犬」と言うのは差別的な表現と読むことも出来ますが、愛玩動物として家族の一員としてここにいるのです。豊かに食物(パン)が乗っている一つ食卓を囲む家族の風景です。

 ここにあるのは神の豊かな食卓です。誰かが満腹になってから、次には「この人に」などと言う順番はまったくありません。食卓を囲む人たちが次々に手を出して食べ始めます。同時に、最初から愛玩動物の子犬にも食べ物が分け与えられます。子どもや家の人たちが満腹になってから、次に犬の番だなどと言うことはあり得ません。子犬でも、家の子らと一緒に、同時に食物(パン)にありつけるのです。

 この「パン」のたとえにおいて語られているのは神の恵みの豊かさなのです。神の恵みは豊かです。泉の水はある場所から噴出し、しだいに拡大していきます。どんどん力強く神の恵みは溢れ出て行きます。使徒言行録1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という御言葉が記されています。

 主イエスの弟子たちの活動によって神の恵みが伝えられていきます。エルサレムから始まり、ユダヤの全地に、異邦のサマリアに、そして地の果てまでも神の恵みは豊かに溢れ流れていきます。その豊かな神の恵みが、キリストによって今、この一人の異邦人の女性の幼い娘にも溢れ流れたのです。異邦人が神の祝福にあずかることの初穂の1つと言えるでしょう。