聖書=マルコ福音書7章9-13節
更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
ここは、主イエスによってユダヤ教ファリサイ派の「昔の人の言い伝え」が大切にされ、大事な神の言葉・律法が無視され、不信仰の根源になっていることを指摘された個所です。主イエスは、7章1節の冒頭から「神の掟(命令)」、「神の言葉」と明確に対比して、「人の言い伝え」「昔の人の言い伝え」、「人間の戒め」「人間の言い伝え」「受け継いだ言い伝え」と言う言葉で「人間的な伝統の言葉」とを注意深く区分けしています。人間的伝統の言葉の持つ問題を指摘し、ファリサイ派に対して「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)と批判しているのです。
「(神の掟を)捨てて」という言葉はたいへん強い言葉です。離れ去り、捨て去る、と言う意味です。ファリサイ派の人たちは、律法を厳格に忠実に守っているように振る舞っているけれど、実際は神の言葉である律法を捨て去っている。ファリサイ派の律法主義は、神の言葉である律法を守っているのではなく、律法を捨てて、似て非なる別物の人間的伝統に従っているのだと言われたのです。
主イエスは、この9節から、神の言葉である律法を捨てて、人間的伝統に生きているユダヤ教ファリサイ派の人たちの矛盾した姿を具体的に指摘していきます。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」と言って、人間的言い伝えに従って神の言葉である律法を捨てている実態を指摘されました。
主イエスは誰でも知っている十戒の第五戒を例に取り上げます。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている」。律法の本文を引用して、ここに神ご自身の強いご意志が明確に表されていると言います。この明白な神のご意志が、ファリサイ派によってどのように人間中心的に変えられるのでしょうか。
「あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。」
実に見事な変容です。神の言葉である律法の無視、第五戒の軽視と言うよりも空虚化です。日本国憲法第九条2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されているにもかかわらず、「自衛のため」と言うことで世界有数な軍事大国になっている我が日本国の為政者の解釈改憲と遜色のない見事な「律法無視」「律法無効化」です。
「神への供え物」と言う名目、神重視という目くらましで、第五戒に示されている神の御心はまったく無視され、父母への敬愛や扶養責任などは虚しくされているのです。「姥捨て」の論理と言っていいでしょう。実に見事な論理の手品で、あざとい詐術です。これが「人間の言い伝え」の正体なのです。
このようなあざとい詐術を、あなたがたユダヤ人は長い間「受け継いできた」のだと、主イエスは弾劾しているのです。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」と言われました。ファリサイ派だけの問題ではありません。ファリサイ派が歴史に登場する以前から、「あなたがた、ユダヤ人は」このような詐術をしてきたと言われたのです。この詐術の伝統の上に「ファリサイ派」が生まれてきたのです。
これは、例とした十戒の第五戒だけのことではありません。「これと同じようなことをたくさん行っている」と言われます。教会の中にも、この詐術の伝統があるかもしれません。この世の政治の中では大手を振って行われています。わたしたちも主イエスに従って、今日も行われているこのような詐術を見極めねばなりません。「神の言葉」の真実を見極めて、神の言葉に聞き従う歩みをして参りましょう。