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第375回 神から遠く離れている

聖書=マルコ福音書7章5-8節

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 

 ここには、ユダヤ教ファリサイ派の考え方と主イエスの考え方との違いが明快に物語られています。今日、キリスト者あるいは牧師と言われる人たちの中にも、ユダヤ教ファリサイ派的な考え方をしている人たちが多くいますので、この個所で語られている主イエスの言葉をしっかり理解しておかねばなりません。

 手を洗わないままで安息日の食卓に着こうとしていた主イエスの弟子たちを見て、ファリサイ派の律法学者たちは主イエスに激しく詰問します。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と。ここで注意したいのは、律法学者たちが「昔の人の言い伝え」と語っていることです。これは律法そのものではなく、律法を遵守するために律法の延長線上に、律法の垣根として律法学者たちが定めてきた規定のことです。この規定を守っている限り、神の意志である律法を忠実に守り、敬虔な生き方をしているという証しでした。

 ここから「昔の人の言い伝え」の規定を守らないと律法違反という指摘が出てくるのです。これを契機として、主イエスのファリサイ派への律法主義批判が始まります。主イエスはまず預言者イザヤの言葉を取り上げます。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている』」と。これはイザヤ書29章13節の引用です。

 預言者イザヤの言葉をもって指摘したユダヤ教ファリサイ派への根源的な批判です。「この民は口先ではわたしを敬う」。昔からユダヤ人は神の民と呼ばれ、またそう自認して宗教生活をしてきました。しかし、主イエスは彼らの信仰の内実は「口先での敬虔」に過ぎないと言う。これは今に始まったことではない。神への信仰を語り、神への服従を語っているが、それは真実ではないと、預言者の言葉をもって激しく弾劾しているのです。

 「その心はわたしから遠く離れている」と指摘します。本来、律法とは「神の意志」の表れです。ところが、ファリサイ派が誕生するはるか以前から、イザヤの時代から、ユダヤ人は神の意志に無関心、律法の規定など気にもしていない。その心は神から遠く離れてしまっていたのです。不信仰、不従順です。神に従ってではなく、自己中心的な生き方になっている。しかし、神の民であるという自尊心はある。この自尊心と不信仰のギャップをカバーするために外見的な敬虔を装う。この外見的敬虔の装いこそが、昔の人の言い伝えの遵守であって、それが「ファリサイ主義」「偽善だ」と言っているのです。

 さらに、イザヤの言葉を引用して続けます。「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」と。「昔の人の言い伝え」とは、実は自分たちに都合の良い「人間の教え、戒め」に過ぎない。ファリサイ派は「昔の人の言い伝え」を神の意志のように語るが、実態は敬虔を装うための人間的な教えに過ぎない。彼らの敬虔、彼らの神礼拝は、人間的な欲望と自己中心を取り繕うための敬虔に過ぎないのです。

 結論として、主イエスは言います。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と。どんなに熱心に神礼拝に励んでいるように見え、律法に従っているように見えても、実際には「あなたたちは神の掟を捨てている」と言います。神のご意志を顧みない、神を捨てている。そして、都合の良い「人間の言い伝え」なるものを造って、信仰者らしく振る舞っている。これを偽善者と呼ぶのです。今日のキリスト者、キリスト教会も、この主イエスの厳しい指摘を受け止めて真実の信仰生活に立ち戻らねばならないのです。