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第374回 規定にとらわれない信仰

聖書=マルコ福音書7章1-4節

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

 

 今回からマルコ福音書7章に入ります。取り上げた個所は、全体では1-23節に及ぶ大きな塊ですが、小さく区切って取扱います。全体をお読みください。ここに記されている出来事はガリラヤ湖岸の「ゲネサレト」でのことでしょう。

 当時の主イエスは神の言葉を語る有力な律法の教師と見られていました。多くの人たちが主イエスとその弟子たちを競って食卓に招きました。特に、安息日の礼拝後には多くの人たちを招いて昼食を共にすることが慣習でした。その昼食会での出来事です。

 「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」と記されています。この人たちは「エルサレムから来た」と記されています。近頃、有名になってきたイエスの言動を調査するために中央から派遣されてきたファリサイ派の律法学者たちでした。この人たちが偵察のために、主イエスとその弟子たちが招かれていた家の昼食会に加わってきたのです。

 ファリサイ派の律法学者たちの鋭い視線が主イエスとその弟子たちの一挙手一投足に注がれています。「何か問題はないか」と。すると、大きな問題を発見しました。「イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」のです。これはユダヤ教の根幹を揺るがす大問題です。「洗い」に関わる規定違反です。

 ユダヤ教では、「洗い」について細かい規定を持っていました。「念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」のです。

 これらの細かい「洗い」の規定は、すべて細部まで旧約律法に規定されているわけではありませんが、律法の延長線上に、律法を欠けなく守るための「垣根」として定められた規定です。これを「昔の人の言い伝え」として、旧約律法と同等に重んじて「昔から受け継いで固く守って」きたのです。これはユダヤ教伝統の根幹に関わることでした。中央から派遣されてきたファリサイ派の律法学者たちにとって見逃すことの出来ない重大事と映ったのです。

 この後、この「昔の人の言い伝え」としての規定を巡って、主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの論争、ユダヤ教信仰に対する主イエスの鋭い批判が展開されていきます。このファリサイ派との論争とそれへの批判をしっかり理解することが、キリスト教信仰の理解のためには必要なことです。

 主イエスの教えを受け止めたキリスト教は、他の宗教と比べて「宗教的タブー(禁忌・禁制)」というものをほとんど持ちません。食物についてのタブーはありません。ユダヤ教、イスラム教のように「豚を食べない」こともありません。仏教のように魚・肉禁止もありません。禁酒禁煙も個人の趣味と健康の問題です。着物やベールの問題もありません。自分と隣人の健康や衛生、環境保全、人の迷惑などを考慮して判断したら、何を食べ、何を飲んでもOKなのです。「洗い」についても宗教的には何の規定もありません。

 自分と隣人の健康や衛生・環境などの点から、各自でしっかり考え、判断してくださったら良いのです。キリスト教信仰は、人を拘束する不自由な宗教ではありません。わたしたちは、日頃、多くの拘束の中で生活しています。家族の拘束、学校の拘束、会社や社会の拘束、国家の拘束と、多くの有形・無形の拘束の中で息詰まるような思いで生きています。人目を気にして生きています。

 それらの多くの拘束や規定から解放されるのがキリストに在る自由です。個人の人権を重んじ、自由を尊ぶ宗教です。主イエス・キリストを受け入れ、信じるところで、すべてのものから解放されて真の自由を得ることが出来るのです。