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第373回 イスラエルの蛮行と堕落

聖書=詩編106編39-43節

39  彼らは自分たちの行いによって汚れ、自分たちの業によって淫行に落ちた。

40  主の怒りは民に向かって燃え上がり、御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし、

41  彼らを諸国の民の手に渡された。彼らを憎む者らが彼らを支配し、

42  敵が彼らを虐げ、その手によって彼らは征服された。

43  主は幾度も彼らを助け出そうとされたが、彼らは反抗し、思うままにふるまい、自分たちの罪によって堕落した。

 

 今回は旧約聖書・詩編106編39-43節の部分を取り上げます。旧約聖書をお持ちの方は106編全体をお読みください。この詩編は「ハレルヤ詩編」の1つで、長大なイスラエルの歴史を歌った叙事詩です。年代はバビロン捕囚の末期、イスラエルの民に対する神の裁きを受け止めての悔い改めの詩と言って良いでしょう。

 この詩は、神の民イスラエルが神の選びの民とされた喜びの賛美から始まりますが、イスラエルの長い歴史を物語ります。しかし、詩人は、その長い歴史を神への反逆の歴史であったと物語っているのです。神の赦しと忍耐にもかかわらず、イスラエルは神の恵みのみ業を忘れ去り、神への反逆を繰り返してきたと語るのです。

 6節「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった」という言葉が、この詩編の基調となっています。この「先祖(たち)」とはアダムとエバを指します。アダムにおいて罪を犯した者の子孫であるという自己理解です。その結果、繰り返された神の恵み深い取り扱い、神の救済の出来事にも関わらず、常にイスラエルは神に反逆してきたと物語っているのです。出エジプトにおいて、ホレブにおいて、メリバにおいて、繰り返し繰り返し、神の御意思に従わず、背神の道を歩み続けてきた、とイスラエルの長い罪の歴史を告白しているのです。

 現在のイスラエル国の歩みも、この背神の道の途上にあります。広い意味での神の許しの中で、新しいイスラエルの国を建てました。しかし、神に従って隣人を愛して隣人と共に住むのではなく、神の律法を無視し、隣人たちを虐殺し、自分勝手な歩みをしています。隣人であるパレスチナ人の土地を奪い、ガザの人々を虐殺し、イランを空爆し、多くの人命を限りなく虐殺しています。しかも悔い改めがありません。このイスラエルの蛮行と虐殺の現実を、今日、わたしたちはしっかり見詰めねばなりません。

 この詩人の視線は、自分たちの国の歩みをしっかり見ています。「彼らは自分たちの行いによって汚れ、自分たちの業によって淫行に落ちた」。「彼ら」と、三人称で冷静に自分たちの国の犯した罪と失敗を突き放して見詰めています。自分たちの手は汚れている。自分たちの所業は神への背神・淫行の業だと告白しているのです。

 その結果は、神の怒りを買うものとなっています。「主の怒りは民に向かって燃え上がり、御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし、彼らを諸国の民の手に渡された」と語ります。神は、イスラエルと特別な関係に入られたが、それは決してイスラエルを野放図にすることではない。神は神なのです。神は聖にして義なるお方です。裁くべき者を裁かれるお方です。イスラエルが神に背く時、特別な関係にあるが故に、かえってイスラエルに対して激しく怒り、敵の手に渡されるのです。

 「御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし、彼らを諸国の民の手に渡された」。神は正当に嗣業の民を裁かれます。これが歴史の中で行われたアッシリアへの捕囚であり、バビロンへの捕囚としてなされてきたことなのです。ところが再び、エルサレムに帰還したイスラエルはさらに多くの罪を犯す者となりました。その結果が、ローマによるユダヤ人のエルサレムからの追放でした。

 再び、イスラエルの地に戻ることが許されたかに見える時、嗣業の民はその行いによって自らを汚し、淫行の業へと落ちたのです。この詩の作者の視線は遠く歴史の彼方まで引き延ばされ、イスラエルの民の悲しい背神の歴史をしっかり見詰めています。「主は幾度も彼らを助け出そうとされたが、彼らは反抗し、思うままにふるまい、自分たちの罪によって堕落した」。最早、この民に希望はありません。神の民でありながら、神を捨てているのです。イスラエルは必ず裁かれます。

 しかし、詩人はなお神に目を注ぎます。神の慈しみと神の契約に目を注いでいます。キリストによる贖い、神の救済を望み見ていると言えるでしょう。