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第371回 湖上を歩く主イエス

聖書=マルコ福音書6章48-52節(45-52節)

ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

 

 今回はマルコ福音書6章48-52節を取り上げますが、前後関係を理解するため、聖書をお持ちの方は45節からお読みください。5千人給食の出来事の後、夕刻となり、主イエスは群衆を解散させ、弟子たちを対岸のベトサイダに向けて船出させました。その後、主イエスは一人山に行き、しばらく祈りの時を持ちました。

 弟子たちはベトサイダに向けて船出しました。もう夜も更けてきました。しかし、「逆風のために漕ぎ悩んでい」ました。ガリラヤ湖は風が強いところで、風向きもしばしば変わります。帆を使い艪を漕いでも向かい風の時にはなかなか進みません。船には、この湖で生計を立てていた漁師のペトロもアンデレも、ヤコブやヨハネもいました。湖の天候や操船についてはよく知っているプロでしたが、対処できないでいたのです。わたしたちの人生でも同様なことはあるでしょう。

 もう、夜が明ける頃になりました。主イエスは、陸上から漕ぎ悩んでいる弟子たちを見て「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」と記されています。この湖上を歩く主イエスを、どう理解するかは信仰が問われます。なんとか合理化して理解しようとする努力もありますが、わたしは虚しい道だと思っています。わたしは、神の御子としての主イエスの神としての能力の表明と素直に受け止めたいと思います。

 問題は、湖上を歩いて近づく主イエスを見て、弟子たちは「幽霊だと思い、大声で叫んだ」ことです。弟子たちも、今日のわたしたちと同じように、この出来事を現実のものとは理解できなかったのです。湖上を歩く主イエスの姿を見て、幽霊、幻影と理解し、おびえ、あわて、大声を出したのです。

 しかし実は、これは主イエスから彼らを助けるために来られた出来事でした。理解できない出来事に遭遇した弟子たちに、主イエスは語りかけてくださいます。「不信仰だ」などとは言いません。主イエスはすぐ彼らに話しかけて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。この言葉を聞き、弟子たちはホッと安心すると共に、自分たちが大きな神の恵みの中にあることを受け止めたのです。

 新共同訳「わたしだ」と訳された言葉は有名な「エゴー・エイミー」です。旧約・出エジプト記3章14節で、主なる神がモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたヘブライ語のギリシャ語訳なのです。主なる神「ヤハウェ」を表す言葉です。主イエスは、ここで、弟子たちにご自分を、モーセに啓示された主なる神「ヤハウェ」、出エジプトの神と同一の者であるとして示されたのです。まさに、イエスは「主・ヤハウェ」なのです。

 五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人たちを養ったパンの奇跡を行われた主イエス、ガリラヤ湖上を歩んで弟子たちのところに来られた主イエス、この主イエスこそは「主・ヤハウェ」なのだということを自ら示した出来事なのです。これらの奇跡は、主イエスの神たることの自らの証言、自己啓示と言っていいでしょう。

 「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた」と記されています。「神、共にいます」という恵みの事実です。逆風で漕ぎ悩んでいたことがウソのようです。確かに、弟子たちの歩みの中で逆風に遭うこともあります。しかし、主イエスを迎えて、主イエスに信頼して生きるところでは「インマヌエル」(神、共にいます)の恵みの中で、平安の内を歩むことができるのです。それには「パンの出来事」(五千人給食)の意味をしっかり理解することです。これこそ、主イエスが羊の飼い主となってくださった恵みの出来事なのです。