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第370回 祈るために山へ行かれた

聖書=マルコ福音書6章45-47節

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。

 

 主イエスはガリラヤ湖畔の人里離れた所で「大勢の群衆」に教え、いやしを行い、五つのパンと二匹の魚で、男だけで「五千人」以上の人たちを満腹になさいました。主イエスの驚くほどの活動が次々になされた。この「五千人給食の出来事」を終えると、もう夕刻でした。主イエスは深い疲労を感じていたでしょう。

 最近、首相になった高市早苗さんは自民党総裁に選出された最初の演説で「働いて、働いて、働いて、働いて、働きます」と、激しく働き尽くすことを表明しました。すると、「働き方改革」に逆行しているとマスコミから批判が殺到しました。当然のことです。日本は戦前から「月月火水木金金」、土日なしで働くことが美徳とされてきました。経済成長期には「24時間、戦えますか」という強精ドリンク剤の宣伝もありました。男社会の中で人を押しのけて自民党総裁になったのですから、男並みにと言うことで口走ってしまったのでしょう。

 しかし、このような働き方は大きな誤りです。人間を壊してしまう働き方です。人には適切・適度な休みが必要です。主イエスも人として生まれた方です。疲労を真実に知るお方でした。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」と記されています。上記の聖書個所はたいへん短いですが、大切なメッセージを見落としてはなりません。

 主イエスは、ここで自分自身に休暇を与えたのです。集会を打ち切って「群衆を解散させました」。主イエスの働きは、まだまだ求められていました。主イエスの働きを求める人たちは大勢います。しかし、このまま働き続けたら、イエスご自身が「燃え尽き症候群」になりかねないのです。適切なところで切り上げたのです。

 それから、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ」ました。「強いて」という言葉が印象的です。「強制的に」と言う意味の言葉です。それほどに、主イエスは疲労していた。疲労困憊していた。一人になりたかったのです。伝道と奉仕は、それに携わる人を精神的にも肉体的にも深く疲労させるものであることを、周囲の関係の人たちは知らねばなりません。

 一人になることは孤独を楽しむことではありません。主イエスは弟子たちと別れ、群衆と別れてから「祈るために山へ行かれた」と記されています。「祈り」は神との交わりの時、神と語らう時です。神に心を開く時です。祈りについてはしばしば誤解されています。礼拝の場においてなされるような整った文章で筋道立てて特定の事柄を求めることと受け止められているのではないでしょうか。それも祈りですが、本来、祈りはそれだけではありません。

 沈黙して神の前に座す。心の中でゆっくりと神を想う。深呼吸するように心を開いて、神の愛と恵みの御手の中に全身を委ねる。神を想い、想いを告げ、神と共に憩い、神を楽しむのです。

 「神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしを」(詩16:1)

 「身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます」(詩3:6)

 「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください」(詩5:2)

 祈りはまた嘆き訴えです。飼う者のいない羊のような神の民の惨状を嘆き訴える詩編の祈りの言葉こそ、主イエスの涙の祈りでした。

 「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません」(詩22:25)

 「貧しく乏しい人を搾取する者から助け出してください」(詩35:10)

 このような神との交わり、神に心を注ぎ出すことこそが、主イエスの力の源泉でした。祈りのひとときこそが、父と子との交わりでした。父なる神との親しい親密ないのちの交わりの中で、神の子・主イエスも慰められ、励まされ、力が回復されていったのです。主イエスの生涯を見る時、この主イエスの父なる神との親しい交わりの秘儀を見逃してはならない。わたしたちも一定の時をとって神の前に心を注ぎ出す真の休息を持つことが必要なのです。