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第368回 あなたがたが食べ物を与えなさい

聖書=マルコ福音書6章35-37節

そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。

 

 主イエスはガリラヤ湖畔の人里離れた所へ行って弟子たちに休暇の時を与えようとしましたが思い通りになりませんでした。主イエスたち一行が目指した場所を察知して、陸路、船よりも速く先に着いて、「大勢の群衆」と言われる人々が待ち受けていたのです。

 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」のです。主イエスは休暇を切り上げて、集まっている人々をそのまま放置できずに、神の恵みの言葉を語り、御手を伸ばしていやしを行う活動を続けたのです。このような飼い主のいない羊の群れは、今日のわたしたちの困窮した生活の有様を表しているのではないでしょうか。

 「そのうち、時もだいぶたった」と記されています。どのくらいの時が経っでしょう。昼時をとうに過ぎていました。群衆も、弟子たちも疲労と空腹を感じてきました。それを感じた弟子たちは主イエスに提案をしたのです。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と。至極もっともな提案と言っていいかもしれません。

 群衆を解散して、各自の責任で食事をさせるのです。今日の新自由主義的な思考といっては言い過ぎでしょうか。だれも責任を取らない。自分のことは自分でしろ、ということです。ところが、ここにいるのは足腰の強い人、お金のある人だけではありません。年老いた人、乳飲み子を抱えた女性もいます。病人や幼児もいます。お金のない人もいます。これらの人が「周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行」って、戻って来ることを求めることは難しいことです。無慈悲なことです。

 ですから、主イエスはそれを止めて弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言いました。非常に大事な言葉です。弟子たちである「あなたがた」が飼い主なのだ、あなたがたが飼い主になるんだ、と言われたのです。この5千人給食の出来事は、ただイエスが奇跡をもって五千人にパンを配っただけのことではありません。弟子たちが「飼い主のいない羊のような群れ」の本当の飼い主になるのだと命じられた出来事なのです。主イエスの弟子となることは、そういうことなのです。

 しかし、弟子たちにはこの真実が分かりません。弟子たちは食べ物だけに視点があります。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言う。この時、この場に集まっていた群衆と言われる人たちは「男が五千人であった」と記されています。当然、女性や子どももいました。まさに「大群衆」です。「二百デナリオン」は今日の円に換算したら約200万円です。弟子たちの見積もりは間違っていません。そんなお金は弟子たちも持っていません。

 主イエスは弟子たちに不可能なこと、無理なことを求めたのでしょうか。確かに、一見すると無理なことです。しかし、主イエスはここで弟子たちに「羊の飼い主になる」ことを求めたのです。飼い主としての責任を自覚させようとされたのです。群れの飼い主の責任は、自分たちの力と能力をしっかり見ておくこと、自分たちの力を蓄積しておくこと、そして何より大切なことは、自分たちの究極的な無力さを悟って、神に助けと導きを求めることなのです。この5千人給食の出来事は、主イエスの弟子たちが飼い主がいない多くの羊の群れの真の飼い主となることを求められた出来事なのです。