聖書=マルコ福音書6章33-34節
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
主イエスは12人の弟子たちを付近の村々に宣教のために派遣しました。その後、弟子たちは帰ってきて報告会を行いました。ここに記されているのは、その報告会の後のことです。主イエスは弟子たちの疲労を見て「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言って、休息のために、船に乗って「人里離れた所」に出かけました。休暇旅行と言っていいでしょう。「ところが」、思い通りに行かなかったのです。
「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」のです。主イエスと弟子たちの動きを見ていた「多くの人々」は、主イエスたち一行が目指した人里離れた場所を察知して、陸路、船よりも速く「先に着いた」のです。多くの人たちは近隣の村々の人たちに「イエスの来たこと」を伝えながら走ったのです。
当時の主イエスについての評判はたいへん大きかった。主イエスがガリラヤ湖畔で語った「神の国の福音」は民衆の心を捕らえました。語る言葉は律法学者のような古くさいものではなく、新鮮なメッセージで聞く者たちの心を掴んで放さなかった。主イエスの行った多くのいやしのみ業は、労苦の中で心身共に病んでいた多くの人たちを慰め、希望を与えました。
旧約聖書では、社会的な弱者に対しての特別な配慮が命じられていました。ところがこの時代、そのような聖書の規定はまったく無視されていました。権力ある者、富む者たちが、その力によって民衆を押さえつけ搾取していたのです。石が流れ木の葉が沈むような時代で、貧しい者はますます貧しくなり、病む者は放置され見捨てられました。夫を失った「やもめ」や孤児は頼るものがありませんでした。
この状況の中で、律法学者のようにではなく、「神の国の福音」を力強く語り、いやしを行う主イエスとその弟子たちの活動は、まさに「救い主」の登場でした。ある意味で、頼りになる新しいスターが誕生したのです。民衆は主イエスに期待し、主イエスを追い求めたのです。
弟子たちに休暇を与えようとして船出し、人里離れた淋しい場所に船を着けた時、そこには陸路を先回りした「大勢の群衆」と言われる人々が待ち受けていました。「イエスは舟から上がり、この大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」のです。
「飼い主のいない羊」は、旧約聖書で繰り返し語られている言葉です。モーセは「主の共同体を飼う者がいない羊の群れのようにしないでください」(民数記27:17)と、神に祈りました。預言者エゼキエルは「まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」(エゼキエル書34:8)と、為政者たちを激しく弾劾しています。
イスラエルでは本来、王として、祭司として油注がれて任じられた者は「群れの牧者」なのです。神に代わって神の民を治め、教え導き、養い、いやし、平和をもたらすべき務めを負っていました。ところが、預言者エゼキエルが告発するように、王や祭司は自分の懐を肥やすだけで、苦しむ民のことなどまったく顧みませんでした。民衆は、暗闇と苦難の中に放置され、戦いに駆り出され、流浪していた「飼い主のいない羊」でした。これが、主イエスが見た当時の民衆・群衆の姿でした。
この飼い主がいない羊のような惨めな人々の状況をご覧になった主イエスは、休暇を切り上げて、人々を放置せずに、恵みの言葉を語り、御手を伸ばしていやしを行う活動を続けたのです。飼い主のいない羊の群れは、今日のわたしたちの生活の有様をも表しているのではないでしょうか。わたしたちもまた、貧困の中で、病み、困窮の中で放浪しているのではないでしょうか。今日のわたしたちもキリストを必要としているのです。