聖書=マルコ福音書6章30-32節
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
ここに記されているのは、マルコ福音書6章7節以降で記されている12人の弟子たちを付近の村に宣教のために派遣した際の報告会とその後のことです。「さて、使徒たちは主イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」と、ごく簡略に記されています。
「残らず報告した」とあります。主イエスから権能を託されて、主イエスのなさったように、ガリラヤ近辺の村々を巡って福音の宣教に励みました。マルコ福音書6章12-13節はその宣教の状況を物語る言葉です。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」のです。その結果、イエスの名が知れ渡り、「ヘロデ王の耳にも入り」洗礼者ヨハネの殉教という悲惨な出来事も引き起こされたほどです。
伝道旅行は大成功と言っていいでしょう。弟子たちは頬を紅潮させながら自分たちの初めての伝道の経験とその成果を喜んで報告したでしょう。しかし、この弟子たちの報告を聞いた主イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われました。休むことを命じたのです。その理由は「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」と記されています。
わたしが現役の牧師であった頃、しばしば聞いた言葉に「燃え尽き症候群」という言葉があります。たいへん熱心に伝道していた牧師が、ある時、突然「うつ症状」になる。身体に不調がでる。異常な対人関係に陥る。務めから降りてしまう。このような症状を呈して牧師を途中で止めてしまうという悲しいケースが多く見られるようになりました。
テレビのコマーシャルで「24時間、働けますか」という言葉が飛び交った時代です。牧師の務めは自由業に区分され、自分の裁量で自由に休みを採ることが出来るのですが基本は24時間の勤務です。昔から牧師は休みなく奉仕することが美徳とされてきました。また、多くの人には牧師の霊的な疲労はなかなか見えません。教会員たちも24時間の勤務を当然のこととして受け止め、少し長い休暇を取る牧師を冷ややかな目で見ることもありました。
しかし、主イエスは弟子たちの紅潮した報告談の中に、彼らの疲労を見抜かれて「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われたのです。旅をしての伝道活動は、肉体的にも疲れ、霊的にも疲労しています。特に霊的な疲労は本人自身でもなかなか気付かないのです。
伝道が失敗した時は、身体も心も滅入って重くなり、疲労感が出てきます。逆に、伝道が成功している時は、心身共に高調して意気が上がり、疲労していることに気付きません。「まだ、出来る」と思い込む。これが危険水域です。
人となられた主イエス自身、肉体的な疲労と共に、霊的な疲労についても十分に理解していたと言っていいでしょう。福音書を読むと、主イエスは伝道の初期の頃から、しばしば人々から離れて、弟子たちからも離れて、一人で祈りの時を持っていたことが記されています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。
ゆっくり休む。しばらく休む。これは、伝道者・牧師だけではなく、すべての人に必要なことです。休むことは決して悪ではなく、人として必要なことなのです。「人里離れた所」とは、人との煩雑な関わりを避けて、神と交わり、霊的な呼吸が出来るところ、ということです。ホッとして、ボーとして、時を過ごす。神を「避けどころ」(シェルター)とすることのできる精神的なゆとりの場を確保することが必要なのです。