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第357回 弟子たちの派遣

聖書=マルコ福音書6章7-9節

そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

 

 今回は6章7-9節をお話しします。この個所は7節から13節が一塊の出来事になっていますが、ショートメッセージのため2回に分けてお話しします。主イエスの故郷ナザレでの伝道の続きです。ナザレの村人の「不信仰に驚かれ」ましたが、主イエスはすぐさま「付近の村を巡り歩いてお教えになった」のです。主イエスは村人の不信仰に絶望しません。しっかりと近隣の村々、町々への伝道へと歩みを進めて行きます。

 この個所は「12弟子の派遣」と言われます。この12人は「使徒と名付けられた」人たちで、後の「キリスト教会」を表しています。この教会の担い手となる弟子たちを、主イエスはご自分の「付近の村々」への伝道の助け手として用いようとされたのです。弟子たちへの伝道の訓練と言っても良いでしょう。

 ここに記されている事柄は、この時の伝道旅行についての注意事項と言って良いものです。この注意事項には、これからの教会の伝道としての基本的な事柄と、この時だけの時限的な事柄とに分けて考える必要があります。主イエスは、まず「二人ずつ組にして」遣わされました。これは伝道への派遣について最も基本的な在り方と言っていいでしょう。伝道者はどれほど有能であっても、一人だけでの派遣ではなく、「二人ずつ」1つの組として遣わされるということです。

 この時だけでなく、パウロの第二次伝道旅行に際しても、有能な伝道者であったパウロでもテモテを連れていくまでは留め置かれたのです。伝道者は互いに祈り合い、支え合い、チェックしあうことが必要なのです。一人が語る時、もう一人が助ける必要があるのです。使徒言行録を注意して読むと、よく分かることです。

 この弟子たちに、主イエスは「汚れた霊に対する権能を授け」ました。これは単なる「いやしの力」ではありません。御言葉の宣べ伝えをもって、霊肉共に病む者たちに対して、霊肉共にいやす福音宣教の権能です。主イエスご自身が持つ福音宣教の権能と言っていいでしょう。その権能が弟子たちに授けられました。弟子たちは主イエスの分身です。主イエスの働きを分有・シェアーして、主イエスの働きを継続するのです。今日の教会の伝道も、主イエスの福音宣教の継続なのです。

 その後の「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、下着は二枚着てはならない」と命じられたのは、この時だけの時限的な注意と言っていいでしょう。

 わたしたちも少し長期の旅に出る時には、いろいろな用意をします。お金も用意し、食べ物も用意します。下着なども整えます。万一の時のために医薬品なども用意します。伝道旅行に際しては、このような用意は必要なのです。昔、ある教派の人たちが、聖書的命令だと言って、若い伝道者たちに不用意な伝道旅行を課したため、本当に困り果てた人に出会ったことがあります。

 主イエスは決してすべての伝道旅行において備えが不必要だと言ったのではありません。ここは「付近の村を巡り歩く」という近隣への伝道を前提としています。準備に時間をかけるな、急いで出かけなさいと言うことです。主イエスのガリラヤ伝道の継続です。近隣の村々の人たちは主イエスの名をよく知っています。主イエスの弟子たちであると知れば、主イエスに対してと同様な接遇をしてくれるでしょう。主イエスはこのことを承知して弟子たちを派遣しているのです。

  聖書を読む時、わたしたちは注意して読まねばなりません。「聖書的である」と言って、解釈をしないで、聖書の文言を字義通りに理解することは、決して聖書的ではありません。聖書の文言の前後関係、歴史的考証などを踏まえて理解する必要があります。聖書の直解主義は聖書の正当な読み方ではありません。