聖書=マルコ福音書5章40-43節(21-43節)
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
今回は会堂長ヤイロの娘のいやし、復活の物語です。主イエスは会堂長ヤイロの家に到着しました。そこには大勢の人々が来ていました。葬儀の準備のためでしょう。その人々の嘲りの言葉と冷笑をもって迎えられました。「もう、お前の出番ではないよ」という冷ややかなものでした。
しかし、主イエスはこれに応えずに「皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」。「皆を外に出し」たのは好奇心の対象ではないからです。ヤイロたち「子供の両親」こそ当事者です。愛する娘の回復を願い、「会堂長」という見栄も捨て恥をも忍んで主イエスの前でひれ伏して哀願したのです。このような両親の祈り求めこそ、主イエスの心を揺り動かしたのです。
この両親は信じていたのです。死んで終わりではないと。目の前の娘は確かに死んでいる。しかし、なお回復を願っているのです。一縷の希望を主イエスに託している。これこそ、来る道の途中で主イエスが語った「恐れることはない。ただ信じなさい」ということでした。娘の死の知らせを受け止めてもなおイエスを家に導き、迎え入れたヤイロは、死をも乗り越え打ち破る、かすかな希望に賭けていた。主イエスの力を信じていたのです。
主イエスは、子供のベットの傍らに立ち、子供の手を取って語りかけます。「タリタ、クム」と。ヘブライ語で「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味の言葉です。「少女よ、起きよ」です。お母さんやお父さんが、毎朝、ぐっすり眠っている娘に「さあ、起きなさい」と言うのと同じ言葉です。
不思議なことが起こります。「少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである」。主イエスの言葉に応えて、いつもの朝に目覚めるように、少女は「すぐに起き上がって、歩きだした」のです。ベットから起き、両親に挨拶し、歩きだした。何事もなかったかのように、いつもの朝の活動が始まったのです。これを見た周囲の人々は「驚きのあまり我を忘れた」と記されています。葬儀の準備のために集まっていた人々は、この出来事に唖然としたでしょう。
この出来事を、どう理解しますか。ある学者たちは、この娘は仮死状態であったと理解します。一番無難な合理的解釈です。しかし、当時の人たちでも死の判定は十分に出来ます。呼んでも応えない。呼吸をしていない。鼓動が止まっている。体が次第に冷たく硬直してくる。娘が死んでから、会堂長ヤイロに知らせに走り、主イエスとヤイロが家に到着する。葬儀のために人々が集まってくる。相当の時間が経っています。死んだことは間違いない。
しかし、主イエスは、この少女を死の世界から生の世界に呼び戻したのです。主イエスは死を前にして何も出来ないこの世の医師ではありません。死者を生に呼び戻す医師なのです。死人を生かす医者なのです。このことを、明らかに示すために、このヤイロの娘が用いられたのです。
主イエスは、この後、両親に2つの注意を与えました。1つは「食べ物を少女に与えるように」ということです。食べ物を食することは普通の生活をすることです。彼女は「死者を生かす医者イエス」の証しとして用いられましたが、永世の獲得ではありません。娘を普通の生活、神と人との交わりの生活に呼び戻したのです。これこそ、ヤイロの願っていたことですし、主イエスのみ業の目的です。
もう1つは「このことをだれにも知らせないようにと厳しく命じた」ことです。ヤイロの家に集まっていた人たちは、この出来事を見て「驚き」ましたが、その範囲に留めておきたい。弟子たちはこの出来事を記憶し、やがて福音書の中に書き留めます。ここで、主イエスが警戒したのは、主イエスの名声が拡大して自由な伝道が出来なくなることでした。主イエスの真の医者としての働きは、十字架の贖いによってさらに多くの人に永遠の命を与えることにありました。