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第354回 死は、終りか

聖書=マルコ福音書5章35-39節(21-43節)

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。

 

 今回は会堂長ヤイロの娘のいやしのために一緒に出かける道の途中で、12年間も出血が止まらない病む女性をいやしている間に、会堂長ヤイロの愛娘が死んでしまったという知らせが届いたところから始まります。

 「遅かった」。ここから始まります。会堂長ヤイロの必死の哀願に応えて、主イエスは一緒に出かけました。途中で長年出血を病む女性のために思わぬ時間を取られてしまいました。主イエスはこの女性のいやしのためにゆっくり時間をかけました。その間、ヤイロはイライラしたでしょう。居ても立ってもいられなかった。そして、とうとう「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」という最悪の知らせを受けてしまったのです。

 「万事休す」。会堂長ヤイロの願いは潰えた。一切が終わってしまった。女に対する深い恨みが込みあげてきたでしょう。この物語はここから始まるのです。遅かった、終わってしまった。この絶望の底から始まる希望の物語なのです。

 ヤイロの傍らで主イエスはその知らせを聞いて言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、ヤイロと共に出かけたのです。ヤイロは、主イエスから「ただ信じなさい」と言われても、何を信じたらいいのか分かりません。ここでは「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった」と記されています。群衆は勿論、その他の弟子たちも随伴することを許さなかった。状況の厳しさからです。

 「一行は会堂長の家に着いた」。どれほどの道のりを歩いたかは分かりませんが、沈黙が支配する重苦しい道行きでしたが、ヤイロの家に到着しました。「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見ました」。主イエスは家の中に入り、集まっている人々に言います。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と。すると「人々はイエスをあざ笑った」。このあざ笑いは、わたしたちにも理解できます。もう死んでいる。どうにもならない、というあざ笑いです。

 この時のユダヤ人のイエスに対する理解は、いやしを行う「医者」というものでした。治療費も取らず、気軽に、重い皮膚病をはじめ、多くの病人、悪霊につかれた者などをいやしてくれる「医者」というのが、主イエスの人気の元であったと言えます。だから、大勢の群衆が押しかけてきていたのです。

 患者の「命」があっての医者です。医者であっても「命」を造ることは出来ません。会堂長ヤイロの愛娘は、もう「命」そのものが失われてしまっている。どんな名医であっても「命」を造ることは出来ない。人々のあざ笑いは「もうお前の出番はなくなった」「もうお前でも役に立たないよ」という冷笑だったのです。

 主イエスは「死」を前にして役立たずの医者なのか。主イエスが、ヤイロの娘の死の知らせを聞いて後も、ヤイロと共にここに来たのは、この重い問いに応えるためでした。主イエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(マルコ福音書2:17)と。主イエス自身、自分を「医者」と言われました。主イエスは、死の現実を前にして役立たずの医者なのか。決してそうではありません。主イエスは、死人に命を与える医者、死人を生かすまことの医者なのです。このことを実証するために今、主イエスは会堂長ヤイロの家に来ているのです。