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第352回 わたしを追う神の恵み

聖書=詩編23編5-6節

5  わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

  わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。

6   命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

     主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。

 

  「新年、明けましておめでとうございます」。少し早いですが、年頭の賀詞を申し上げます。皆さまは、過ぐる年をいかがお過ごしでしたでしょうか。トランプさんに振り回され、「働いて、働いて、働いて、……」と連呼した高市さんにあっけに取られたのではないでしょうか。お米を始めもろもろの物価が高騰し、希望が見えず、生きることに苦しみもがく一年ではなかったでしょうか。

 皆さまは、新しい年を今年こそ、という期待をもって迎えようとしているのではないでしょうか。新しい年の始めに決意を心に期しておられることと思います。年頭に当たって、あのこと、このことという具体的な事柄もさることながら、大きく神の恵みと祝福を期待して参りましょう。

 年頭に当たって、旧約聖書・詩編23編5-6節からお話しします。詩編23編1-4節で、羊飼いと羊の親しい関係が描かれます。死の陰を行くような苦難の中にあっても、羊飼いであるキリストがわたしと一緒にいて、生活を支え守り、永遠に活かしてくださるという神の恵みが歌い上げられています。

 5節は、一転して客を迎える主人の情景に変わります。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」。「わたしを苦しめる者」が、敵なのか、旅人を襲う強盗なのか、正体は分かりませんが、「わたし」は苦しめられています。この「苦難の中にあること」こそ、「わたし」の姿です。新しい年も苦しみが続くでしょう。

 古代オリエントでは、強盗や敵に追われた旅人が天幕に逃げ込んできたら、天幕の主人は旅人を保護すべき習慣があったと言われています。この天幕の主人こそ「わたしの主となってくださったキリスト」です。5節の「あなた」は、苦難の中にある旅人を迎えて温かくもてなす天幕の主人・キリストです。

 わたしたちは人生途上で多くの苦難に遭遇します。「苦しめる者」に囲まれています。誤解され、憎まれ、非難され、裏切られ、迫害され、わたしの心も体もズタズタになり、途方に暮れます。

 しかし、「神の天幕」に逃げ込むならば、状況は全く変わるのだと、詩人は歌っているのです。敵から守られて寛ぐことが出来ます。「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」のです。今まで食事も喉に通らなかったが、今はゆっくり安んじて食すことが出来る。それだけでなく、「わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」のです。来客の頭に香油(オリーブ油)を注ぐことは歓迎と交わりを表す行為です。なみなみと杯にぶどう酒を注いで喜び迎え入れてくださいます。

 苦難に取り囲まれて生きてきた「わたし」は、神の天幕でのもてなしによって、ホッと安堵の吐息を漏らして、安らぎを感じ、居場所を得るのです。これが信仰の祝福です。主なるキリストがわたしを迎えて、「あるじしてくださる」(接待してくださる)。これこそ、信仰の祝福、恵みなのです。

 そこで、詩の作者である「わたし」は決断します。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と。これが詩編23編全体の結論です。羊飼いであるキリストの恵み、天幕の主であるキリストの祝福は、「いつもわたしを追う」のです。神の恩寵が、わたしの生涯、この地上の生だけでなく、永遠の生においても、わたしを追いかけ、わたしを捕らえて放さない。神の恩寵の勝利と言っていい。

 そのゆえに、わたしは「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と告白します。わたしの終の棲家は主の家しかありません。「主の家」とは、旧約時代の神殿のことではありません。神なるキリストのいます恩寵の王国です。そこが「わたしたち」の永遠の住まいです。新しい年も、わたしたちは生涯、終の棲家を目指し、神と共にあり、平安と喜びの中で活き続けて参りましょう。