聖書=エフェソ書2章15-22節
こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
今回もアドベント(待降節)の週として新約聖書エフェソ書2章15-22節を取り上げます。エフェソ書の著者パウロは「キリストはおいでになり、……平和の福音を告げ知らせられました」と記しました。今日、世界中で戦乱が渦巻き、戦争の被害で泣く人たちがいます。その中で「平和の福音」を聞いていきます。
長い文章ですがかいつまんで記します。「平和の福音」という言葉が記されています。「平和」(シャローム)には2つの意味があります。第1に、神とわたしたちの間の平和です。これは罪の赦しの恵みと言っていい。神と人間を隔てているのは罪です。人は皆、神から離れ、自分勝手に生き、神の敵となっています。神なんかいらない、と神から逃亡して生きている。しかし、神は罪人であるわたしたちを愛し、罪ある人間の真ん中に入ってきてくださいました。これがクリスマスです。イエス・キリストは神と人とを結ぶため十字架を担ってくださいました。
主イエスは、ご自分の血をもって神の怒りをなだめ、罪の贖いをし、罪人に対する隔ての壁を取り壊してくださいました。それによって神の赦しを獲得し、神との和解を実現してくださいました。ここに神と人との平和が与えられたのです。キリストを信じ、キリストに結ばれて、わたしたちは神との平和を得ることができます。これが「キリストはわたしたちの平和」の意味です。
ここに記されている「平和」(シャローム)には、もう1つの意味があります。それは、長い間、憎み合い、殺し合い、罵り合ってきた、選びの民と言われてきたユダヤ人と選びの外にあると言われてきた異邦人とを、一人の人のように和解させたことです。これがキリストの十字架の働きです。何千年にもわたる争いの歴史があります。しかし、主イエスはこの和解のために十字架を担われたのです。
主イエスの十字架の和解のみ業を人の心の領域、宗教的側面だけに閉じ込めてはなりません。人と人との関わり、国と国との関わり、民族と民族との関わりの中に神の和解、シャロームを求めていくことです。これがクリスマスの祈りです。
この祈りは、わたしたちの使命と関わります。世界に平和をつくり出す使命です。今、世界は決して平和ではなく争いの渦中にあります。ウクライナで、パレスチナとガザで、各地で多くの血が流されています。国と国だけのことではありません。人が何人か集まると争いが起こります。夫婦の間でも、親子の間でも争いが起こります。「この野郎、死んじまえ」という憎しみが沸き起こる。
聖書が記す最初の殺人は、アベルとカインの兄弟同士の殺し合いでした。それが拡大して今日の戦争になっているのです。神はユダヤ人の神だけでなく、キリストに在って異邦人の神となってくださいました。互いに兄弟と認め合って愛し合うのです。このために、主イエスは十字架を担われたのです。
争いの世の中で、平和を祈り求めることがわたしたちの使命です。平和を造り出すとは、敵意を取り除くことです。一つになるべきものを二つに分けるものは「敵意」です。敵意は敵とは違います。敵を造る心です。敵意はわたしの中にある。わたしたちは「敵」のことを考えて、自分の中にある「敵意」を忘れています。「敵意」は、相手に対して否定的に働く思い、自分しか認めない心です。キリストは、敵を滅ぼされたのではなく、敵意を取り除いて、敵である人を愛してくださいました。
キリストに贖われ、神との平和の恵みをいただいた者として、この世界に平和の実現を祈り求めることが、わたしたちの召命です。生きる限り、平和を祈り、平和を追い求めることを、わたしたちの召命と受け止めて参りましょう。