聖書=詩編44編24-27節
24 主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく、目覚めてください。
25 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを、忘れてしまわれたのですか。
26 我らの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです。
27 立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。
今回も旧約聖書・詩編44編24-27節から「アドベント」(待降節)のお話しをします。この詩編は「国民的嘆きの歌」に分類され、捕囚期前の国民的困難な時代の作品とされていますが、ある特定の時代に限定されるものではないと思っています。詩人は深い個人的な嘆きと悲しみの中にいます。わたしはこの詩編をアドベントの中で読もうと思います。
皆さまは「マッチ売りの少女」の話をご存じでしょうか。この少女のことを思い浮かべながらお読みください。クリスマスは本来、華やかさや豪華な食事など関係のない貧しさの中で起こった物語なのです。
詩人は「我らが貧しく、虐げられている」と語ります。これが詩人の置かれている現実の境遇です。底辺からの叫び求めです。旧約聖書は社会の底辺で呻く人たちについて決して無関心ではありません。出エジプト記22章20-22節で「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」と記されています。モーセ律法の規定です。
ところが、現実には真逆のことが行われていました。故国を追われて難民となり、イスラエルに身を寄せて生きる「寄留者」は力無き者の典型です。夫を失った「寡婦」と親を失った「孤児」は頼るべき者を持たない無力な存在です。そして、旧約聖書はこのような弱い人たちが生きる道をいろいろな形で設け示していたのです。
そして、これら貧しく弱い者たちを保護すべき者とされていたのは、王や祭司たちです。イスラエルでは、王や祭司は神に代わって群れを導き、養い、治める権能を、神から委ねられた「牧者」(メシア)なのです。ところが、民の牧者であるべき王や祭司たちがその権力をもって貧しく弱い者たちを虐げ、搾取していたのです。激しく奪い、富む者はますます富み、頼るべき者を失った無力な者たちはますます貧しくなり、立ち上がることも出来ません。詩人が語る「我らの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです」と言う惨めな状況なのです。
このような状況の中で、詩人は神に向かって激しく訴えている。「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく、目覚めてください。なぜ、御顔を隠しておられるのですか」と。あたかも神の胸ぐらを掴んでの激しい訴えと言っていいでしょう。「神よ、起きて見てくれ」と。
この嘆き訴えの根拠こそ、先ほど引用した出エジプト記22章22節の主の約束の言葉です。「もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」と、主なる神が言われたのです。実は、この約束の言葉に加えて、神ご自身が虐待する者や苦しめる者たちに報復すると約束しているのです。詩人は、この神の約束が虚しくなっていいのですか、と訴えているのです。
この詩人の嘆き訴えは聞き届けられたでしょうか。マッチ売りの少女のため息のような祈りは聞かれたでしょうか。この詩人の嘆き訴えは、わたしたちがこの地上で生きる限り、かなえられない普遍的な祈りです。
しかし、この世界の切実な祈りが、キリストにおいて聞かれているのです。キリストが、今日、わたしたちの嘆き訴えの中で生きているのです。わたしたちの日毎の困窮の祈り、パレスチナのガザの人たちの生存を賭けた祈り、その中にキリストが立っていてくださいます。わたしたちは失望しないでこの詩人の祈りを、わたしたちの祈りとして祈り続けて参りましょう