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第348回 我らは主の御名を誇る

聖書=詩編20編7-9節

7  今、わたしは知った。主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。

8  戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。

9  彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる。

 

 今回は旧約聖書・詩編20編7-9節から神の言葉に聞いてまいりましょう。今年のアドベント(待降節)が始まります。待降節第一主日は11月の末の主日となっています。主なる神、イエス・キリストの到来を覚えて、この詩編からお話しします。この詩編は、いわゆる「メシア詩編」と呼ばれるものではありません。「王の詩」と言われて、ダビデ時代まで遡ることの出来る古い詩編で、その中から1つの断片を取り上げます。

 詩人は「今、わたしは知った」と歌います。神のなされる大きな恵みのみ業を知ったと語るのです。それは、「主は油注がれた方に勝利を授け」てくださることです。「油注がれた方」とは「メシア」(救い主)を意味し、イスラエルでは王、祭司、預言者を指します。王、祭司、預言者が、オリーブ油を注がれて、神の代理者として任職し、それぞれの働きを委ねられました。ところが、ほとんどの王や祭司たちは神の委託に背き、弱者を顧みることなく、自己の欲望のままに生き、神の委託に応えません。

 そのような神の御心に反するイスラエルの長い歴史の末に、神はご自身が油を注いで真の王・祭司・預言者としてのメシアの到来を約束していました。この「油注がれた方」(単数)こそが、わたしたちの主イエス・キリストなのです。わたしは、ここに真のメシアであるキリストを読み取って良いと思っています。

 このお方こそ、神から真の勝利を授けられるお方です。この勝利は、地上の戦いによる勝利ではありません。貧しく弱い者たちを搾取して巨万の富を築く勝利でもありません。真の救い主の勝利です。「聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されること」という勝利です。神の恩寵による勝利です。

 神の御子であるお方が身を低くしてこの世界に来られ、人の弱さを知り、貧しさの極みを舐め、人に侮られ、苦しみを担われました。その苦難の極みが十字架です。この油注がれたお方の勝利とは十字架の勝利なのです。詩人は、この油注がれた方の勝利を「わたしは知った」と歌っているのです。

 詩人は続けて歌います。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」と。油注がれたお方の勝利は、軍馬に依らない勝利です。「戦車を誇る者、馬を誇る者」とは、軍備を誇る者と言うことです。いざ有事の際に多くの人が頼みとするのは「軍備」です。昔も今も変わりません。政府は貧しい人の生きる糧を削り、国民の生活に回すべき予算を削って大軍拡に励みます。

 ところが、神はこの戦車や馬を虚しくされました。出エジプトにおいて、イスラエルの民はその目で見、実体験したはずです。軍馬と戦車をもってイスラエルの民を追いかけたエジプトのパロの軍勢は海の藻屑となった。神は人を軍備によって救うお方では決してありません。イスラエルの民は、このことを十分に知っているはずですが、今や忘却の民となっているのです。

 詩人は「我らは、我らの神、主の御名を唱える」と歌います。「主の御名を唱える」は弱い訳し方です。新しい「共同訳」では、「我らの神、主の名を誇る」と訳しました。神の名を唱えるだけではない。神に万全の信頼をよせて、神こそが真の力をもってわたしたちを救い出してくださる唯一人のお方として「誇る」のです。これこそ、勝利する神に対する信頼です。クリスマスに当たって、この神の救済の恵みを誇り、歌おうではありませんか。

 「彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる」。軍備や軍事によって、人を救うことは出来ません。必ず「力を失って倒れ」ます。しかし、神の力に信頼する者は失望することはありません。神の力に満たされて立ち上がることが出来るのです。ロシアとウクライナの戦争、イスラエルのガザ・パレスチナに対する残虐な行動、わたしたちはこれらの出来事の中に、神の救済と神の勝利を望み見て参りましょう。