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第347回 会堂長ヤイロの願い

聖書=マルコ福音書5章21-24節(21-43節)

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

 

 今回はマルコ福音書5章の後半、会堂長ヤイロの娘のいやしと12年間の長血で病む女のいやしの出来事です。長い複合した物語です。このショートメッセージでは一段落ごとにそれぞれの大事な点を取り扱いたいと思います。

 「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた」。主イエスは、異邦人の地ゲラサでの活動を拒絶され、再び舟に乗り、カファルナウムに帰ってきたという状況の設定です。イエスが戻ってきたと聞きつけて、再び「大勢の群衆がそばに集まって来」ました。

 主イエスは湖のほとりにおられます。すると「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏し」ました。ここで大事なのは、主イエスのところに来て、その前にひれ伏したのが「会堂長」であったことです。直前のゲラサの地では墓場に住む異邦人の男をいやしました。そして、この後、ヤイロと共に出かけた道の途中で貧しいユダヤの女性をいやしました。

 同じ出来事を記すマタイ福音書では「指導者」と記しています。「会堂長」はユダヤ社会の中では指導者層に属していました。おそらく、ファリサイ派の有力者であったと推測できます。普段では、イエスとの個人的な交わりなどなかったでしょう。むしろ、イエスに対して警戒し、内心では敵意を持っていても不思議ではない階層に属している人です。

 しかし今、その会堂長ヤイロが、周囲の人目も気にせずに、主イエスを見ると足もとにひれ伏したのです。異常なことが起こったと言っていい。そして、ヤイロは「しきりに願った」。必死な願いでした。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」という願い、懇願でした。

 会堂長ともなれば、ある程度の資産もあった。幼い愛娘のことです。当然、今まで多くの医者や呪術師たちにも見せ、治療も施してきた。ところが、一向に治らないどころか、病状は悪くなるばかりです。会堂長ヤイロは万策尽き果て、主イエスのところに来て助けを求めてひれ伏したのです。主イエスは、この会堂長の願いに対して、どう対応したでしょうか。気軽に応じたのです。「そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた」のです。「あなたは金持ちだから他の医者に当たれ」と言いません。「おまえはファリサイ派の有力者ではないか」と皮肉も言いません。

 「病むこと」は人の貧富を問いません。年齢や身分、階層、民族をも問いません。そして、病は本人だけでなく、周囲の人たちに深刻な危機をもたらします。誰でも病み、痛みます。病によっては死に至るものもあります。病は周囲の人たちを深刻な悲しみと危機に陥れます。

 主イエスは病の中に、人間の中にある根源的な罪の問題を見ていたと言っていいでしょう。病人、即罪人と考えてはなりません。ただ、人の病の最も深いところで、神から離れて歩む人間の営みの課題が露呈してくるのではないでしょうか。主イエスは、人の病の中に、神と共にある心身の健全さ、平安、平穏さを見失った人間の根源的な弱さ、罪を見ておられるのです。

 主イエスは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ福音書2:17)と。主イエスは、病をいやし、罪を赦す、まことの医者です。人間の中にある根源的な問題、病と罪を取り除くために、この世に来られた真の医者なのです。このお方は、決して人を偏り見ることなく病む者の傍らに立ってくださいます。あなたも、このお方のもとに来て、いやしと赦しを得てください。