聖書=マルコ福音書5章11-17節(1-20節)
ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
今回はマルコ福音書5章の記されている「ゲラサ人のいやし」と言われている出来事の後半部分(11-17節)です。ガリラヤ湖の向こう側、ゲラサ人の住む地は異邦人の地です。ゲラサ人の主要産業は小麦などの農業でしたが、豚を飼う畜産も普通に行われていました。「二千匹ほどの豚」が飼われていました。養豚はこの村の主要産業の1つで、当時はほとんどの畜産が放牧形態であったようです。
主イエスが、汚れた霊に取りつかれた人に向かって「汚れた霊、この人から出て行け」と命じた時、汚れた霊は自分たちをこの地方から追い出さないようにと「しきりに願った」のです。悪霊の哀願と言っていい。周辺の山辺で豚の大群がえさをあさっていた。それを見た汚れた霊は主イエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。少しでも生き延びようとしたのです。
この悪霊の懇願をどう理解していいのか、難しいところです。主イエスは、この後、村人のこの出来事に対する評価、この世の考え方を明らかにするための道として、悪霊の哀願を承諾したのでしょう。「イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」。結局、汚れた霊は豚の群れを道連れとして滅んでしまったのです。
しかし、この出来事は養豚業者たちにとっては大損害です。二千匹は決して少ない数ではありません。豚飼いたちは、この出来事を周辺の村人に伝えました。これを伝え聞いた村人たちの考え方、評価が問われているのです。
村人たちの前には、2つの事実が示されています。1つは、墓場を住まいとしていた悪霊に取りつかれた人が、今は「服を着、正気になって座っている」姿です。いやされ、もう奇矯なことを叫び出さない、人としてノーマルに生きる姿です。村人はこの姿を見て、ホッと安堵したでしょう。「良かった」と思ったでしょう。
もう1つは、自分たちの仲間が飼っていた二千匹の豚が死んでしまった事実です。主イエスがこの男をいやした結果、このような結果になったのだろう、と受け止めました。彼らにとって豚二千匹の死は経済的な死活問題です。村の主要産業が大きなダメージを受けた。今日、鶏の感染症や豚コレラなどによって大量の殺処分をしなければならない業者の苦悩を考える時、その苦しみが分かります。
村の人たちは相談した。汚れた霊にとりつかれた男が回復したことは喜ばしいことではあるが、豚二千匹の死は村にとって経済的な大損害です。この経済的な損害に目をつむることは出来ない。もし、この後も同じようなイエスのいやしが、この村で続けられたら経済的に大損害となるだろうと受け止めたのです。
ゲラサの村人はこの2つを天秤にかけて、「人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」。主イエスの退去を強要した。ここに示されていることは、経済に重点を置いてものを見る判断です。決して古代人の判断とは言えません。今日のわたしたちの周囲の人たちも同じように判断するのではないでしょうか。
主イエスが、悪霊に取りつかれた人のいやしに付随して、異邦人の町の人たちのものの考え方を抉り出したのです。ここに示されているのは、どのような時代であっても変わらない人間の罪深さです。経済でのみ、ものを判断する人間の在り方です。主イエスに関わったら、儲けにならない、損失になる、そう考えて、主イエスを拒絶したのです。主イエスは社会から拒絶される救い主なのです。