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第343回 我が名はレギオン

聖書=マルコ福音書5章6-10節(1-20節)

イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

 

 今回は、マルコ福音書5章の前半に記されている「ゲラサ人のいやし」と言われている出来事の(1-10節)の後半部分です。「悪霊に取りつかれたゲラサ人のいやし」の物語です。

 この個所の特色の1つは、主イエスは舟から上がられたばかりですが、汚れた霊に取りつかれた男の方が待ちかねたように、まだ遠く離れている主イエスを見て「走り寄ってひれ伏した」点にあります。先手を打ったのは男の方でした。しかも、ひれ伏したのです。傍目には主イエスを礼拝する姿であったと言っていいでしょう。

 ところが、実態は全く違います。汚れた霊、悪霊の懇願なのです。汚れた霊は、ガリラヤ湖畔での主イエスの活動を知悉していました。主イエスの語った講話、行った多くの驚くべきいやしのみ業、その1つ1つが、異邦人の地であるゲラサにも伝えられており、それが神の恵みの業、神の恵みの支配の到来であることに、悪霊も気づいていたという以外ありません。

 主イエスがゲラサの地に来たのは、ゲラサに住む人々を悪霊から解放し、神の恵みの支配をもたらす神の救済をもたらすことを見て取ったのです。悪霊、汚れた霊は、自分たちの闇の支配が終わることを直感して、悪霊なりになんとか生き延びようとして狡知を働かせて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と、放置することを頼み込んだのです。

 すると、主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と言われました。悪霊を追放したのです。そして、主イエスはこの男に「名は何というのか」とお尋ねになりました。「名」を問うことは、その人の本質、その人自身を問うことです。

 すると彼は「(わたしの)名はレギオン。大勢だから」と言った。象徴的な問答です。「レギオン」は、この男の本来の名ではありません。本名が出てきていません。この男が「大勢だから」と言うように、レギオンとはローマの「軍団」を意味する言葉です。6千人ほどで1軍団(レギオン)とされていました。

 彼は、1軍団に匹敵するほどの多量の悪霊、汚れた霊に取りつかれ、乗っ取られて、自己を見失っていたのです。これが彼の自己理解「我が名はレギオン」です。自分の本当の名を見失っている。人としての生き方を見失って生きてきた。汚れた霊の住処となり、悪霊に支配されメチャクチャな歩みをしてきた。収拾のつかない多重人格、自己喪失です。今日も、このような我を見失い、自己を喪失して彷徨する人、周囲の人たちから理解されない人は、多くいるのではないでしょうか。

 周囲の人たちは、このような人の取扱いに戸惑い、時に拘束し、見放します。結果、このような人は居場所を無くし、冷たい周囲や社会に対して激しい憎悪や怨念を燃やし、凶行に及ぶこともあります。このゲラサの汚れた霊につかれた人は、今日のわたしたちの周囲に多くいる人たちなのです。

 しかし、主イエスは、このような人を目当てに荒海をも乗り越えて、この人の解放、この人の救いのために、ゲラサの地に来たのです。主イエスは、霊肉共に病む者の傍らに立つ真の医者です。主イエスは、真に神の御子の力をもって「汚れた霊、この人から出て行け」と言われ、悪霊を追放したのです。ここに主イエスの神の子としての権威を見なければなりません。一人の心病む人に深く関わり、悪霊の支配から神の恵みの支配の中に導き入れられたのです。これが「いやし」です。

 悪霊が追放されると共に、神の霊が彼を支配し、神と共に生きる新しい生き方を獲得するのです。それは同時に、隣人や家族との社会的な交わりが回復することでもあります。墓を住処としていた生活から、家族の人たちと共に生きる生活へと大きく転換したのです。神の恵みの支配がここにあります。