聖書=マルコ福音書4章33-34節
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
今回はマルコ福音書に戻り、4章33-34節からお話しします。なぜ、主イエスが多くの「たとえ」を語ったのかという理由について、福音書記者マルコの書いた短い注釈の文言です。福音書記者マルコは、4章で「種を蒔く人」のたとえから始まって、主イエスの語ったたとえ話を幾つかまとめて記述し、「イエスは、……このように多くのたとえで御言葉を語られた」と記します。聖書の学者によると、4つの福音書の中で、主イエスの語った「たとえ」は70ほどあるとのことです。
確かに、主イエスはその生涯において多くのことを「たとえ」を用いて語っています。なぜでしょうか。ここでは主イエスの語られた「たとえ」について考えてみます。多くの人は、「たとえ」とは難解な話を分かり易くするための話法と考えるようです。難解な理詰めの話ではなく、一般の人たちの生活に即してかみ砕いて、誰でも理解し分かるようにするためのものと考えます。
しかし実は、主イエスの語る「たとえ」話は必ずしも一般の人に分かりやすいものとは限りません。「種を蒔く人のたとえ」は、主イエスは種を蒔く農夫の農作業とその種の発芽の状況を忠実に「言葉で描いている」のです。主イエスの語る「たとえ」話は、言葉で描く絵画と言っていいものです。身の回りの対象や事象を、一般の人に分かる言葉で描くのですから、事柄自体は決して分かりにくくはありません。
しかし、弟子たちでさえも、その「意味」が分からず、主イエスに解説を求め、主イエス自身も求めに応じて説明しているのです。抽象的な絵画などは、そこから何を読み取るかは、それを鑑賞する人によって異なるのと同じです。自明なものでも論理的な話でもなく、「謎」に包まれていると言っていいでしょう。主イエスの語る「たとえ話」は分かりやすいという人は、本当は何も分かっていないのです。
聖書の中には「黙示文学」というジャンルがあります。旧約ではダニエル書、新約ではヨハネ黙示録がそうです。危機の時代に現れる文学様式です。数字や象徴的な言葉で何ごとかが語られますが、読み手に知識がない場合、何が語られているのか分かりません。わたしは、主イエスの「たとえ」は黙示文学ではないが、「たとえ話」の中には黙示文学的な要素があるのではないか、と思っています。
マルコは「イエスは、人々の聞く力に応じて」多くのたとえを語ったと述べます。聞く人の力に委ねている。誰にでもすべてが理解できるのではない。多くの人には「謎」のままです。「分からない」ことさえも、「分かっていない」場合もある。分からなければ、それでいい、と言っているのです。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな」(イザヤ書6:9)と語る預言者イザヤの「心をかたくなにする」預言の言葉と通じるものがあります。
しかし、主イエスは「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」と記されます。新共同訳「ひそかに」の翻訳は問題があります。「秘密裏に」ということではなく、「弟子たちだけのところで」という意味の言葉です。「種を蒔く人」のたとえのところで、弟子たちに「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(4:11)と語ったことと同じです。弟子たちには隠すことなく「すべてを詳細に説明された」のです。
ここに、教会のすばらしさ、教会の特権が示されているのです。キリストの弟子の群れである教会には、神の国の秘密が打ち明けられ、すべて説明されているのです。教会に集うべき理由がここにあるのです。現今の世界の中で、わたしたちは多くの悲しみと労苦の中に置かれています。権力者による破壊と略奪が目の前にあります。神の義は覆い隠され、正義と公平は無視されています。苦しむ者の呻く声があちこちから聞こえてきます。
その中で、わたしたちは「神の国」実現の確かな希望をもって生きるのです。「神の国」のたとえを聴いて理解し、神の恵みの支配が確かに近づいていることを知っています。神の国は成長し、やがて公然と現れます。わたしたちは、神の国の到来を待ち望んで生き抜くのです。