· 

第338回 夕べになっても光がある

聖書=ゼカリヤ書14章7-8節

7 しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜    もなく、夕べになっても   光がある。

8 その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける。

 

 今回は、いつものマルコ福音書から離れて、旧約聖書ゼカリヤ書14章7-8節からお話しします。先日、9月14日、わたしが出席している教会の礼拝後に敬老会をしてくださり、記念品も頂戴しました。昔は敬老の祝いに与る人は少なかったのですが、最近は多くなりました。このように老人のことを覚えて祈ってくれる教会の交わりの中にいることの幸いを感謝しています。

 この敬老の日の祝いに応えて、わたしの感じ、受け止めていることを記したいと思っています。最近、「終活」という言葉を聞きます。自分でも使う言葉ですが、内心ではあまりいい思いをしていません。テレビでは家族葬の広告、死亡保険の案内などがなされています。高齢者の死が前提となっています。さらに親しかった人たちの訃報が多く寄せられるようになり、自分も「死」に取り囲まれてきたなあ、と自覚しています。

 しかし、キリスト者にとって、「死」は決して人生の終着駅でも、絶望でもありません。むしろ、希望の時です。上記の旧約預言者ゼカリヤが語る「ただひとつの日」「その日」とは、その前の5節に記されている「わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に、あなたのもとに来られる」時なのです。終末の時、主イエスの再臨の時です。その時から始まる主イエス・キリストが唯一の主として治める永遠の神の国では、「もはや、夜はない」(ヨハネ黙示録22:5)と語られます。

 今の世界では、神によって昼と夜とが定められています。昼は額に汗して労苦して働く時です。夜は休みの時ですが、必ずしも安眠ではなく悶々として悲しみ悩む時です。人の生活のために季節も定められていますが、最近は世界中で季節が極めて混乱しています。激しい暑さで多くの人が死んでいきます。この世界の中では、何処にも人が安んじて生きる場所は無くなっています。

 今や、人と人とが激しく憎みあい、怒りあい、殺し合って生きる世界となっています。神の存在は全く無視されて、自分ファーストで欲望に従った強い者勝ちの世界となっています。夜はLED電球によって煌煌と照らされていますが、実は神をなくして、暗闇が支配する世界になっているのです。

 しかし、主イエスは「わたしは世の光である」(ヨハネ福音書8:12)と言われました。終末の時には「世の光」であるお方ですべてを照らしてくださいます。もはや少しの暗黒もありません。不条理に悩まされて悶々と夜を過ごす必要は無いのです。安んじて憩える世界です。

 主イエスは、「わたしは命である」(ヨハネ福音書14:6)とも言われました。このお方が信じる者に内在して永遠の命に生かしてくださるのです。「その日、エルサレムから命の水が湧き出で、半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい、夏も冬も流れ続ける」。この「エルサレム」は地上のユダヤのエルサレムではありません。神の国のことです。神の国では台風や洪水で悩まされることはありません。「命の水」で豊かに生かしてくださるのです。

 預言者ゼカリヤは、「そのときは昼もなければ、夜もなく、夕べになっても光がある」。主イエスが再び来られる時は、「昼もなければ、夜もなく」です。わたしたちの生涯は昼と夜が交差して支配する世界、「生老病死」という言葉で言い表される世界です。生きることは苦であり、老いて病み、死を以て終わります。

 しかしもはや、そのような世界は去ったのです。明るい光の中で生きるのです。「夕べになっても光がある」とは、人生の黄昏時にも幾分の光がある、と言う意味の言葉ではありません。神の国では黄昏はないと言うことです。昼も夜もないのです。キリストの光の中に導き入れられているのです。

 わたしたちが自分の人生の黄昏時、終末を意識せざるを得ない時、キリストを信じる者はキリストの光と命の中で生きることが約束されているのです。永遠の命の世界に導き入れてくださるキリストの光を仰ぎ見て生きて参りましょう。