聖書=マルコ福音書4章26-29節
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
今回はマルコ福音書4章26-29節をお話しします。キリスト教会の中にも流行があります。しばらく前まで「教会成長論」というものが流行っていました。アメリカの福音派からの輸入でしたが、日本の教会にも深刻な影響を与えました。その教会成長論の根拠の1つとなっていたのが、この個所です。
しかし、この個所は教会成長論の物語ではありません。主イエスは「神の国は次のようなものである」と語られました。「神の国」のたとえです。教会は神の国と深く関わりますが同じではありません。両者を混同してはなりません。「神の国」は神の支配を意味しています。「教会」には、神の支配の側面もありますが、終末の完成時まで人の支配や関与が複雑に絡み合います。現実の教会は必ずしも神の支配に服しません。むしろ、神の御心に反したり、神の御心に逆行することさえあるのです。
「神の国」は本来、終末的な概念です。神の御意思が満たされるところ、人が神の恵みの中で、神と交わり、共に喜び、永遠の生を享受する世界です。けれども、わたしたち人は今、堕罪によって神の国を失っています。アダムにあって、全人類は罪を犯し、神の国から追放されてしまいました。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」(エゼキエル書18:4口語訳)とあるとおり、死に向かっての生となったのです。
しかし、神は罪人となった人間の救いのために、救い主として神の御子イエス・キリストをお遣わしくださいました。主イエスこそ神の御心を全うして義を獲得し、罪人の罪を贖い、人を神の元に回復してくださるただ一人の救い主です。このキリストの恵みの支配が「神の国」なのです。福音が語られ、キリストが信じ受け入れられ、キリストの恵みの支配が次第次第に確立していく様が例えられているのです。
キリストの恵みの支配は目に見えません。そのため、神の国はいつ来るのかと、多くの人々は焦り、人間的な知恵や力によって、なんとか早く来たらせようと努めるのです。そこから教会成長論などが出て来るのです。
この「成長する種」のたとえは、神の国がなかなか到来しないことに失望する弟子たちに対して、目前の事柄によって失望しないようにと語られた物語なのです。人は「福音の種」を蒔きます。伝道活動と言っていいでしょう。人はその伝道の成果について一喜一憂します。しかし、主イエスは「人が……夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」と言います。自然に成長するのだと言われたのです。その成長の過程も人には分かりません。
主イエスは、植物の実際の成長の姿をたとえとして語っています。「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」と。「地はひとりでに」を、共同訳では「地は自ずから」と訳します。人の労苦や活動を排除する言葉です。人があくせくしても始まらない。神の恵みの御手に委ねる以外ない。そして「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」と語られます。豊かな実りと収穫の時が約束されているのです。
自然の営みはゆっくりです。芽が出て、根を張り、枝が生じ、葉が出ます。順序があり焦ってはなりません。一気に結実を見ることは出来ません。農夫が「夜昼、寝起きしているうちに」と言います。この言葉で長い年月の必要が意味されています。神の国の完成には、時の成熟が求められていると、主イエスは語っているのです。神の国の完成には人間の思いを遙かに超えた「時の経過」が必要なのです。
わたしたちキリストの弟子たちには、農夫として忠実に「福音の種を蒔く」働きと、水を注ぐ働きが求められています。目の前の成果に一喜一憂せず、託された務めを忠実誠実に果たしていくことです。その後のことは、安心して神の御手に委ねることです。神ご自身が、神の言葉である種を芽生えさせ、成長させ、豊かな実りの時をもたらせてくださいます。