聖書=マルコ福音書4章24-25節
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
今回はマルコ福音書4章24-25節をお話しします。この個所は短いところですし、記されている事柄自体は分かるのですが、「では何が語られているのか」を理解するのは困難なところです。解釈者によってバラバラです。そのため、この「秤(はかり)」のたとえは、主イエスが別のところで語ったことが、マルコによって編集された時に、ここに誤って挿入されたと理解する人も少なくありません。それは解釈の放棄と言っていいでしょう。
この個所は「秤(はかり)のたとえ」です。4章1節から、主イエスによって語られた「種を蒔く人のたとえ」の継続です。「種を蒔く人」のたとえは、主イエスの言葉(神の言葉)を聞く者の責任について語られたものです。主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返し語られています。この「秤のたとえ」も直前の23節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われています。
神の言葉を聞くことは、応答する責任が生じます。「馬耳東風」という言葉があります。人の意見や言葉を全く気にかけないで聞き流すことです。「馬の耳に念仏」と言うことも言われます。大事なことが語られても耳を貸そうとしない態度を指しています。このような聞き方は、神の言葉の聞き方ではありません。
このような虚しい聞き方は、いつの時代にも多い。今日でも説教者の言葉を「騒がしいドラ、やかましいシンバル」のように聞き流す人も多い。「糠に釘」です。真剣に語る者にとって最もつらいことです。主イエスもこのような悲哀を感じていました。大勢の人が主イエスの周りに集まり、主イエスの言葉を聞いていました。しかし、それは流行歌手の歌声を聞くような、漫談師の話を聞くようなものでした。
そのような聞き手に対して、主イエスは「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。「何を聞いているか」と言います。主イエスの言葉は「生ける神の言葉」です。自分の生死をかけて聞かねばならない重い言葉なのです。「重い言葉」として聞いているかと、主イエスは問うているのです。
当時、一般に使われていた「秤」は分銅が用いられた天秤です。古代エジプトの壁画にも描かれています。一方の皿に定量の重りを乗せ、他方の皿にそれに見合う重さの品物が置かれて計量されます。この秤を念頭に置いて、主イエスは「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われました。
主イエスの語る「言葉」に対して、あなたはどの程度の「重み」をもって聞いているのかと、問うているのです。主イエスの語る言葉を「重みのある神の言葉」として真剣に受け止める人に対しては、主イエスもまた、その人を重く受け止めます。それだけでなく「更にたくさん与えられる」のです。
さらに逆転が起こります。主イエスの語る言葉に重きを置いて聞く人に対しては、神の恵みはますます豊かに重くはかり与えられます。反対に、主イエスの言葉を軽く聞き流すような人に対しては、折角持っている主イエスについての知識がむしろマイナスになる、奪い取られることもあるのだと語られているのです。
主イエスは、この時期、「おびただしい群衆」に取り囲まれていました。伝道活動は大成功を収めていたようにも見えます。そして、今日の多くの伝道者も会堂に集う人々の数に一喜一憂しています。しかし、主イエスはこの「おびただしい群衆」に対して極めて冷ややかです。伝道の成果は人数ではありません。聞き手によって、神の言葉が重みをもって受け止められているかが大事なのです。
やがて、「おびただしい群衆」が手のひらを返したように、主イエスから去って行きます。それだけでなく、最後は「十字架につけろ」と叫んで、総督のピラトにイエスの十架処刑を強要したのは、同じ「群衆」なのです。あなたは、神の言葉を、この群衆のような聞き方をしていないでしょうか。神の言葉には「重み」があり、聞く人の真剣な応答が求められているのです。