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第334回 「ともし火」のたとえ

聖書=マルコ福音書4章21-23節

また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 今回はマルコ福音書4章21-23節をお話しします。この個所は、主イエスが語られた「ともし火」のたとえです。このたとえ話には主イエスの説明、解説が付いていません。先の「種蒔きのたとえ」の解説に従って、聞く者たちが自分で理解していかねばならないのです。このたとえの後にも、種蒔きのたとえを語った時と同じように、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と語り、聴衆に理解を委ねています。今日のわたしたちは、このたとえをどのように聞くのが適切なのでしょうか。

 「ともし火」は、暗闇を照らすものです。ここで語られている「ともし火」は、夕暮れになると一人ひとりが手に持って足元を照らす小型のものです。人の掌ほどの大きさの窪みがあり、そこに少量の油を蓄え、芯を垂らして火をともす簡便なものです。持ち歩いたり、台の上に置いて部屋全体を照らすことも出来ます。少し大きなカンテラのようなもので提灯のように部屋に吊すものもありました。

 主イエスの時代と今日では大きな変化があります。今日では夜間と言えど真昼のような明るい世界が現出しています。このような時代にはなかなか理解しにくいかもしれません。しかし、懐中電灯などを考えたらお分かりいただけるでしょう。

 主イエスは、ここで「ともし火」の働きについて言及しているのです。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と言われました。夕暮れになると真っ暗になる。人々は大急ぎで燭台の上のともし火に火を入れます。

 「ともし火」は、古代も現代も2つの大きな働きを持っています。1つは暗闇の中で道を示す働きです。聖書では「道の光」とも言われている働きです。夜間に外出する時、小型の「ともし火」を持ちます。道を明るく照らし、歩む道筋を指し示すことです。わたしたちの人生を確かなものとして導く働きと言っていいでしょう。

 「ともし火」のもう1つの働きは、ここで主イエスが言う「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」と言う働きです。闇の中に隠れているものを明るい世界にさらけ出す働きです。そのために、主イエスは「ともし火」を「升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と言われたのです。

 ここで、主イエスが語ろうとしているのは、闇に包まれているものを光の下にさらけ出す働きです。この時代、ユダヤの社会は暗闇に包まれていました。不義と不正が蔓延していました。富む者がますます富み、貧しい者はますます貧しくなります。権力ある者はその権力を用いて貧しい民衆から搾取を行い、甘い汁を吸い続けます。律法が配慮を命じている弱者、孤児ややもめは放置されたままです。

 ファリサイ派の律法学者たちによって、会堂で律法が朗々と朗読され、その律法が解き明かされても、律法の遵守は無視されたままです。神の言葉が語られても無視されている。社会の底辺から泣き叫ぶ力なき者たちの嘆きと呻き、叫びの声も無視されたまま、闇の中に包まれたままです。

 このような権力による不義と不正の蔓延は、いつの時代でもあります。むしろ、現代こそ闇は深まっているのではないでしょうか。大企業の膨大な献金によって国家の政策が闇の内に決定され、政治家は裏金によって当選します。軍事費は青天井で伸びていき、産・軍・政・官の闇の世界が潤い、社会は真っ暗闇です。

 貧しい者たちは持っているものまで奪われています。生活保護費は削減され、社会福祉や医療関係の予算は大きく削られています。弱き者たちの叫び声、怨嗟の声が巷に満ちています。弱き者たちの嘆きの声などは聞き届けられません。

 主イエスは、このような社会の暗闇を見据えて、しっかりと明かりを照らせ、闇に秘められている事柄を露わにしろ、と命じているのです。主イエスは「だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」(ヨハネ福音書12:46)と言われました。行く道を照らすだけでなく、世の光である主イエスは、この世の暗黒を照らし、暴き出し、神の裁きを告知しているのです。光であるキリストを掲げて、この世界の闇を照らし、公にしろ、と命じておられるのです。