聖書=マタイ福音書5章43-44節
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。
本日は2025年、敗戦記念日の8月15日です。この時に、新約聖書・マタイ福音書5章43-44節からお話します。短いところですが、キリスト者の基本的な生き方を規定する大切な主イエスのお言葉が記されています。
今日、世界中至る所で戦争が起こっています。また、戦争が起ころうとしています。そのほとんどの戦争が「報復」であることに気づいていただきたいのです。自分たちは正義の戦争をしていると言い張りますが、実際は報復合戦、利益獲得のための戦争なのです。「やられたから、やり返す」、「正義はこちらにある」と言って戦争が続けられ、多くの人々の血が流され、家が焼かれ、飢餓が起こり、悲しみが充満しています。戦争の最大の被害者は、戦争を起こす国のトップや政治家ではなく、駆り出されていく一般の市民です。キリスト教国と言われる国々でも、この悲しい報復戦争が起こっているのです。
このようなことは決して、主イエス・キリストの望んでおられることと違います。主イエスの望んでおられることと真逆なことが今、この世界で行われているのです。
主イエスは先ず、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と言われました。主イエス以前の旧約の時代は「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきた。旧約では「同体復讐法」というものがありました。「目には目を、歯には歯を」というものです。やられたら、同じ程度にやり返すことが認められていたのです。古代世界では今日のような警察や裁判のシステムがなかったためです。ですから、同じ程度にやり返す同体復讐ということが、個人間で認められていました。
しかし、主イエスは「違う」と言われたのです。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。敵を憎んで叩き潰すのではない。報復を放棄するのです。「敵を愛するのだ」と言われた。「迫害する者のために祈れ」と言われたのです。復讐の連鎖を続けていったら相互の絶滅です。やられたら、やり返す。取られたら、取り返す。これがズッと無限に続いていったら、どうなりますか。一時は力の強い者によって押さえつけられていても、恨みは蓄積していく。相手の力が弱くなったら、報復がなされ続け、その終局は絶滅以外ありません。
主イエスは、わたしたちを愛し、わたしたちの救いのために祈り続け、十字架を担われました。聖書では、神に対して罪を犯し、神に背き続けるわたしたち罪人を「神の敵」と語ります。罪を平然と犯し続け、神に背き続けるわたしたちです。しかし、この神の敵であるわたしたちを愛し、わたしたちの救いのために、主イエスはご自身を犠牲として十字架で捧げてくださいました。
この主イエス・キリストの罪の贖いによって、わたしたち神の敵であった罪人の罪が赦され、神との関係が回復するのです。このようにして回復された神との平和を「シャローム」(平和、平安)と言います。イエス・キリストの十字架に、わたしたちは何を見るのか。敵を愛し、敵のために真剣に祈る人が、ここに居ることを知るのです。わたしたちは、このキリストの十字架によって罪が赦され、神と和解しているのです。
この十字架を担われた主イエスが、「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたのです。敵を隣人とするのです。キリストを信じる者の最も基本的な生き方が、ここに示されているのです。キリストに従って、この敵をも愛する生き方を、わたしたちもまた貫いて参りたいと願っています。