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第330回 種蒔きのたとえ

聖書=マルコ福音書4章1-9節

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 

 今回はマルコ福音書4章1-9節までをお話しします。これから、主イエスが伝道の場で語られた「たとえ」について取り上げることになります。先ず、伝道の場の情景が記されています。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」。

 「おびただしい群衆」です。主イエスはガリラヤ湖上に船を出し、船の上から語りました。聴衆は湖畔の小高いところに座して聞いたのです。ここに集まって来た人たちの多くは、近隣に住む漁師たち、農民たち、商人たち、一般庶民でした。彼らの多くが貧しく、生活が困窮し、病や障害を抱えて生き悩み、主イエスに切なる望みをつないで、ここに来ていたのです。

 これらの人たちに主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を語られました。マルコ福音書では、この「種を蒔く人のたとえ」について注意深く繰り返すような形で解説をしています。4章1節-9節は「たとえ」の本体だけを語り、10-12節は主イエスがなぜ「たとえ」で物語るのかという理由を述べ、13-20節は主イエス自身による「種を蒔く人のたとえ」の解説、適用が記されているのです。

 主イエスは、この「種を蒔く人のたとえ」だけでなく、多くのたとえを語りました。そこでは、このような煩雑な形を採らずに「たとえ」だけを語りました。ある意味で、「種を蒔く人のたとえ」で示された解説と適用は、他の「たとえ」をも理解する方法を教えるためのものと言えるでしょう。他の多くの「たとえ」も「このように理解するのだ」ということです。

 主イエスの語られた「種を蒔く人のたとえ」を見て参りましょう。決してわかりにくい話ではありません。理屈を積み重ねた論理や抽象的な理論でもありません。多くの人が実際に見ている日々の生活の状況、よく知っている農作業の姿を「言葉で描いた」だけです。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。

 農夫が種蒔きに出かけていった。この時代の農法は、日本の今日の農法と違って、「種」を蒔いてから、その「種」を土中に鋤き込む大雑把な農法でした。その農作業の情景が淡々と描かれています。そして、「こうなった」と事実を語り、評価や感想は語られていません。この「たとえ」は小見出しで「種を蒔く人のたとえ」と言われていますが、実は種を蒔く農夫に焦点があるのではなく、「蒔かれた種」の方に焦点があります。「種」が、どうなっていくのかに焦点が当てられています。

 この「たとえ」を語り終えてから、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言います。この一言を、主イエスは語りたかったと言っていいでしょう。「分かる者は、分かれ」ということです。主イエスの説教、主イエスの教えには、このような側面があります。主イエスは、分かりやすく丁寧に語りますが、すべての人に分かるというものではありません。主イエスの生涯、主イエスの十字架の出来事も、すべての人に分かるというものではありません。福音は聴く者の聞き方が問われています。聞く力、悟る力が求められているのです。あなたは……?