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第328回 聖霊を冒涜する罪

聖書=マルコ福音書3章23-30節

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 

 今回はマルコ福音書3章20-30節までの後半部分、23-30節をお話しします。ファリサイ派の律法学者たちが、イエスは「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と語ったことに対する反論です。周囲には弟子たちも群衆もいました。主イエス自身の働きの弁明であると共に律法学者たちに対する詰問でもあります。

 主イエスはたとえを用いて語られます。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」と。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。当然なことです。例えサタンの国であっても国である以上秩序がなければ成立しません。サタンの頭がサタンを追放したら、内輪もめや反逆が起こってサタンの国でも立ちゆきません。

 さらに主イエスは言います。「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と。一軒の家に強盗が押し入るのなら、まず最も強い者から縛り上げてからでないと、強盗など出来ないでしょう。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言う律法学者たちの論理は破綻していると指摘したのです。

 それから、主イエスは律法学者たちに極めて厳粛に言われます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われました。「はっきり言っておく」という表現は、主イエスが極めて大切なことを語る時の言葉です。注意して聞かねばならない言葉です。

 先ず、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と言います。わたしたちに対する豊かな恵みの言葉です。この「人の子ら」とは、わたしたちのことです。わたしたちは大小にかかわらず日ごとに罪を犯します。罪を犯しながら生きるのです。時には神を冒涜するような言葉を吐き、不信仰の罪を犯してしまいます。しかし、主イエスはこれらのすべての罪が「赦される」と言われました。神の赦しにかなわない罪はありません。

 しかし、主イエスは例外があると言います。それが「聖霊を冒涜する罪」です。「聖霊を冒涜する罪」とは、どういう罪なのでしょう。主イエスは、ここでその罪を詳細を語らず、前後関係から推測する以外ありません。それは、主イエスが神の霊・聖霊によって悪霊を追い出している恵みの事実を知りながら、故意にそれを悪霊の仕業と語っていることを指しています。主イエスのいやしと悪霊の追放は、「汚れた霊に取りつかれている者」の仕業だと語ることです。

 これは、神の恵みの事実を認めないことです。神の絶大な恵みの働きとその結果を見て、認知しながら、そのすべてを悪霊の働きとしてしまうことです。単なる不信仰、神否定と言うだけのことではありません。主イエスによってなされる神の絶大な働きを認めつつも、そのすべてを悪霊の働きに帰してしまう。「神と悪霊とを取り替えてしまうこと」です。これに対して、主イエスは「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われたのです。

 わたしたちは、主イエスの福音宣教、主イエスの言葉と行いによって、神の恵みの支配が到来していることをしっかりと受け止めたい。主イエスの恵みのみ業を喜び、感謝して受け入れましょう。そして、主イエスの下に身を寄せる者となりましょう。