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第327回 イエスの身内の誤解

聖書=マルコ福音書3章20-22節(20-30節)

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 

 今回はマルコ福音書3章20-22節を取り扱います。この個所は20-30節までの一続きの出来事ですが、ショートメッセージの都合上、前半と後半に分けてお話しします。ここには、当時のイエスの家族、身内と言われる人たちのイエスに対する理解、誤解による行動が記されています。

 「イエスが家に帰られると」と記されています。この「家」とは、主イエス自身の郷里・ナザレの家ではなく、ガリラヤ伝道において拠点としていたシモンとアンデレの家であったでしょう。イエスが帰ってきたというので、「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」と記されています。この時期に、主イエスの「身内」と言われる人たちがやってきたのです。

 「身内」の人たちが、なぜ、やってきたのでしょう。このガリラヤ伝道の時代、主イエスは今日風に言えば「スーパーヒーロー」であったと言っていいでしょう。行く先々で「群衆」に取り囲まれました。主イエスはユダヤ人の住む地だけでなく、異邦人の住む地にもおもむき、心身を病む多くの者たちをいやすと共に、神の恵みを語り伝えました。社会的に見捨てられていたような人たちをも差別することなく、語りかけ、いやしを行い、共に食事をし、仲間にしました。

 その語るメッセージは多くの人を驚かせました。旧約の律法を語りながらも、全く新しい視点から語り直されたのです。主イエスは、律法を律法主義的に語るのではなく、律法の根源に立ち返って神の恵みの言葉、人を生かす「福音」として語ったのです。当時の人々にとっては「新しい権威ある言葉」として受け取られました。

 さらに、マルコ福音書が強調して伝えるのは、主イエスは福音を語ると共に、多くの病む者たちへ具体的ないやしの御業を行ったことです。汚れた霊に取りつかれた男をいやし、シモンのしゅうとめをいやし、重い皮膚病の人、中風の人、手の萎えた人などをいやし、さらに病気に悩む多くの人たちをいやしたことを強調して記しています。主イエスの行ったこれらいやしの業は、主イエスの語る福音の言葉の力を証しするものでした。これこそ、主イエスの周辺に群衆が集った理由です。

 これに激怒したのがファリサイ派でした。当初は、イエスを自分たちと同じ律法を教える仲間と見ていましたが、「違い」を見いだし、排除へと動き出したのです。ファリサイ派の人たちが、主イエスは悪霊の頭と言われているベルゼブルに取り憑かれていると風評を立てました。「エルサレムから下って来た律法学者たち」は、ガリラヤ地方に住む律法学者ではなく、中央のエルサレムから派遣されてきた指導的立場の律法学者たちです。彼らが各地で「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、イエスの活動は「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言い触らしたのです。イエスの語ること、なすことは皆「悪霊の働きだ」と断じたのです。

 イエスのいやしの業に対しての「嫉妬」があったのです。ファリサイ派の律法学者たちも律法については蘊蓄を傾けて語ることができました。しかし、主イエスのしている「いやし」は出来ません。貧しい人や病む者たちの仲間になることもしません。自分たちには出来ないし、したくもない。そこで、イエスの働きは悪霊の働き、悪霊の頭ベルゼブルがしている働きで「気が狂っている」と決めつけ、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」のだと、各地で言い触らしてきたのです。

 それを伝え聞いたナザレにいた「イエスの身内の人たち」が、主イエスを取り押さえに来たのです。「身内の人たち」とは、主イエスの母と兄弟たち、家族だけでなく親族や知人たちをも含めています。イエスは気が狂った、悪霊に取りつかれてしまった、と受け止めてしまったのです。

 この人たちは、主イエスのことを懸念し、あるいは恥じて、主イエスを取り押さえて故郷に連れ帰り、閉じ込めてしまおう、としていたのです。主イエスの危機と言っていいでしょう。今日、世の多くの人たちも、同じような思いで主イエスとその弟子たちの活動を見ることもあるのではないでしょうか。