· 

第325回 押し寄せる群衆

聖書=マルコ福音書3章7-12節

イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 

 今回はマルコ福音書3章7-12節を取り扱います。この個所は、主イエスの伝道活動をまとめた章句と言っていいでしょう。「群衆」という言葉が3回用いられています。「おびただしい群衆」とあるように、数えることのできないほどの多くの人たちが主イエスを取り囲んでいました。

 この人たちは、地元のガリラヤ地方からだけでなく、「ユダヤ、 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからも」来ていました。「ユダヤ、 エルサレム、イドマヤ」は、ヨルダン川西岸、パレスチナ中央部を指します。「ヨルダン川の向こう側」とは、ヨルダン川東岸、デカポリス、ペレア地方を指しています。「ティルスやシドン」は、当時フェニキアと呼ばれていた地中海沿岸の異邦人の地です。福音書記者マルコは、これら地名を挙げることで、主イエスのもとに集まって来ていた群衆の多様性を物語っているのです。ユダヤ人だけでなく多様な異邦人も、主イエスのもとに集まって来ていました。

 「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである」と記されています。主イエスと弟子たちの危機感が記されています。膨れ上がり、押し寄せる群衆に危機感を持ち、いざという時には、ガリラヤ湖上に逃れられるようにしたのです。実際にこの後、主イエスは船に乗って船上から湖岸にいる群衆に語ることも起こっています。

 そのような中で、主イエスは群衆の中に入り「多くの病人をいやされた」のです。人を民族や出自によって差別することなく、一人ひとり、病むところに手を置き、言葉を語りかけ、祈っていやされました。決して十把一絡げではありません。主イエスの伝道といやしは、一人ひとりの心と体を丁寧に取り扱うのです。時間がかかったでしょう。

 現代は医薬の発達した世界です。心と体に不調や病状を発見したら、医者へ行き、医療処置がなされます。しかし、主イエスの時代は違いました。多くの病は悪霊の働きと考えて、その治療には魔術師が関わりました。医療と魔術の境界がなかったと言っていいでしょう。代わって、現代はすべての病や症状を医薬の問題として領域設定し、人の病や症状から宗教を排除してしまいます。しかし、すべての病や症状が医薬で完全に解決できるものではありません。

 「汚れた霊」は「悪霊」とも言われ、人を支配し、心と魂を迷わせ、体を痛めつけ、人生を狂わせます。汚れた霊や悪霊と言うと「おどろおどろしい」物の怪のようなものを考えますが、そんなものではありません。人を支配する力です。

 今日を生きるわたしたちは、汚れた霊に支配されています。すべてを合理的に、自分中心に考えて、神や目に見えない超自然性や価値を否定します。物的利益を得ることを第1にして、人を押しのけて狂奔し、怪物のような生き方をします。その結果、現代人も心を病み、体を壊しているのです。

 自分が深く病んでいることに気付かない。病や症状は医薬で解決できる。自分はノーマルだと思い込んでいるのが現代人です。しかし、病の深さはイエスの時代よりも深刻になっているのです。今日のわたしたちの惨めな生活、わたしたちを取り囲む悲惨な社会の在り方、酷い戦いに明け暮れる世界の状況は、汚れた霊、悪霊に取り憑かれた人間の姿なのではないでしょうか。

 人間存在の最も深いところに巣くっているのが「汚れた霊」「悪霊」です。決して医薬によって解決できるものではありません。主イエスは、今もこの世を支配する「汚れた霊」と戦いました。「イエスを神の子、主キリスト」と信じる信仰こそが、人を根本的にいやし、救い、世界に真の平和をもたらす力なのです。