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第319回 医者を必要とするのは病人である

聖書=マルコ福音書2章15-17節

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 マルコ福音書2章13-17節の後半部分、15-17節を取り扱います。主イエスがガリラヤ湖畔、カファルナウムの収税所にいたアルファイの子レビに目を留めて「わたしに従いなさい」と命じ、彼を弟子としました。今回はその直後の出来事です。レビは徴税人を止めて主イエスの弟子として生きることを決意しました。彼はそこで、主イエス一行を迎えて徴税人仲間との送別の宴を開いたのです。

 レビは徴税人になってお金が儲かったでしょう。彼の家は大邸宅で多くの人を迎え入れることが出来たようです。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人も主イエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」と記されています。主イエスとその弟子たち、それに随行する人たち、そして徴税人レビの仲間たちで家の中は一杯になりました。この人たちで賑やかな送別の宴が開かれました。

 そこに「ファリサイ派の律法学者」がいました。ファリサイ派とはユダヤ教の保守的なグループです。当時、ユダヤはローマの支配下にあり、魅力的なローマ文化が怒濤のように入ってきました。祭司階級などはいち早くローマ化していきました。それに対して頑なにローマ文化の流入を拒み、旧約伝統に生きようとしたのが「ファリサイ派」です。そのファリサイ派の中で、さらに律法をしっかり学び、律法に従った生き方を極めようとしたのが律法学者と言われる人たちでした。

 律法学者たちは当初、律法を教えるイエスを自分たちの仲間だと見ていましたが、しだいに、どうも自分たちとは違うと感じ、イエスの行動を監視し始めたのです。この宴会は律法学者にとって驚きの出来事でした。

 律法学者は「イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」のです。当時、会食は宗教的な意味合いを持ちました。食事を共にすることは、交わりを共にする仲間を意味していました。律法の教師と見ていたイエスが、ためらうことなく徴税人や遊び人である「罪人」などと一緒に会食することはあり得ないことでした。

 弟子たちに語られた問いですが、主イエスはこの問いに対して素早く反応します。主イエスにとって極めて大切な問いであったからです。主イエスは明瞭に語ります。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

 ここに、主イエスがこの世界に来られた目的が語られたのです。主イエスは御自分を「医者」に例えました。医者は病む人のための存在です。医者が病人から離れていては医者としての働きは出来ません。医師は病む人たちの中に入り、病む人の傍らにおらねばならないのです。主イエスは多くの病む人たちをいやしてきました。シモンのしゅうとめの熱病をいやし、重い皮膚病の人をいやし、中風の人をいやしてきました。肉体の病だけでなく、汚れた霊に取りつかれた男や悪霊に取りつかれた人たちもいやされました。徴税人レビもまた深く病む人でした。

 自分には医者など要らないと思っている人は、どれほどいるでしょうか。人は誰も「病」を抱えており、医者を必要としない人は一人もいません。主イエスはここで病人に代えて「罪人」と言います。「罪」とは「ハマルティア」という語で「的外れ」を意味します。人は「神」という的を外して生きている。その結果、滅びへと突っ込んでしまうのです。わたしたちは根源的な不治の病を抱えて生きています。

 主イエスは、人間が持つ根源的な病「罪」によつて的外れな生き方をしている者を、神を目当てとした真実の生き方へと回復させるために、この地に来られたのです。そのために、わたしたちと交わり、いやし、共に歩んでくださるのです。