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第318回 徴税人レビを弟子にする

聖書=マルコ福音書2章13-14節

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

 

 今回はマルコ福音書2章13-17節の前半部分、13-14節を取り扱います。主イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いていました。周囲に人が集まり、主イエスは道々歩きながら教えていました。その途中に収税所があり「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけ」ました。湖岸の街カファルナウムには大きな収税所がありました。

 「収税所」とは、今日で言えば税務署で、そこに勤めるのが「徴税人」です。この時代、収税所はローマ総督の下にあり、税収はローマ帝国に入ります。税は大きく2つでした。1つは悪名高い人頭税です。2つは物品の通関税です。税についての規定はありましたが、今日のような公正なものではありません。徴税人のさじ加減で正規の税額に数倍をかけて徴収し、差額は徴税人のものにしていました。

 徴税人は、ユダヤ伝統の職ではなくローマ総督の雇用人で志願して徴税人となり、ローマの力を背景にして強奪をしていたのです。ユダヤの富をローマに売り渡す売国奴、知的強盗と見なされ、ユダヤ人から嫌われ、会堂の交わりから拒絶されました。徴税人になると金は儲かりますが、遊女、罪人(仕事を持たず遊び暮らす人)と一括りにされ、社会的に疎外されました。

 「アルファイの子レビが収税所に座っていた」と記されています。「レビ」という名はユダヤでは有名な名前です。ヤコブとレアの間に生まれた第三子で祭司の部族レビ族の祖となった人物の名前です。「アルファイの子レビ」も本来であれば、レビの子孫として神殿に奉仕する家系にありました。しかし今、金のため徴税人になり、その結果、神殿や会堂の交わりから閉め出され、誰からも爪弾きされ、孤独と空虚を深く感じていました。

 レビも、イエスという人物について聞いていたのでしょう。病む人や障がいを持つ人たち、多くの社会的に疎外された人たちをも分け隔てなく迎え入れていることを聞き知っていたでしょう。あるいは、群衆の一人としてイエスの話を聞きに行っていたかもしれません。その有名なイエスが今、収税所の前を通りかかったのです。思わず収税所の机の前に身を乗り出していました。

 主イエスは、この収税所に座って身を乗り出していたレビを「見かけて」、「わたしに従いなさい」と言われたのです。「見かける」という訳し方は不十分です。チラッと見るのではなく、ジッと見つめたのです。シモンやヤコブの兄弟たちを「ご覧になった」のと同じように、レビも「ご覧になった」のです。レビは自分に注がれる主イエスの暖かな眼差しを受け止めたのです。

 「わたしに従いなさい」。レビにとって、今まで聞いたことのない言葉でした。「わたしの仲間になれ」ということです。誰からも嫌われ、仲間はずれにされてきた。自分が近づくと、人は皆警戒して逃げ、追い払われてきた。その自分に対して、暖かな眼差しをもって、親しく「わたしの仲間になれ」と呼びかけられたのです。

 驚いたでしょう。嬉しかったでしょう。「彼は立ち上がってイエスに従った」のです。シモンとアンデレの二人、ヤコブとヨハネの兄弟たちと同じように、徴税人の仕事を投げ出して、主イエスの弟子としての歩みを、ここから始めたのです。

 マルコ福音書の著者は、このレビの召命の出来事を「病む者のいやし」の1つとして取り扱っています。彼は深く病む人でした。徴税人として働いていたのですから外見的には健康です。知能も優れ、計数に明るく、体も頑健でした。しかし、心は深く病んでいました。富を得ることを生きがいとし、その結果、神との交わりを失い、人との交わりを失い、疎外感を味わい、深い傷を負っていたのです。

 その傷つき病んでいたレビが、いやされ、新しい生きがいに目覚め、主イエスの弟子としての歩みを始めました。これは、今日のわたしたちの姿ではないでしょうか。わたしたちに注がれている主イエスの暖かな視線を受け止めてまいりましょう。