聖書=マルコ福音書1章9-11節
そのころ、イエスはガしリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
今回はマルコ福音書1章9-11節からお話しします。洗礼者ヨハネに紹介されて、いよいよ主イエスの登場となります。「そのころ」と記されます。マルコ福音書では、このような接続詞が大切です。「そのころ」「それから」「すぐに」という接続詞が頻繁に出てきます。「そのころ」とは、洗礼者ヨハネが荒れ野・ヨルダン川の岸辺で「罪の赦しを得させるための洗礼を宣べ伝えていた、その頃」です。
「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と記されます。主イエスの誕生はダビデの町と言われたベツレヘムですが、まもなくガリラヤの辺境の地ナザレに移り、ナザレで青少年期を過ごしました。そのため、人々は彼を「ナザレのイエス」と呼びました。主イエスは、この時、およそ30歳と言われています。祭司が任職して公的に務めを始める年齢です。
マルコ福音書では、イエスが「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と事実を簡略に記していますが、他の福音書を読むと一紛争あったことが分かります。洗礼者ヨハネの行っていたのは「悔い改めの洗礼」でした。そのため、洗礼者ヨハネはイエスの受洗を押しとどめようとしたのですが、主イエス自身が強く望んで洗礼が行われたことが記されています。
これは大切な事柄なのです。なぜ、主イエスは洗礼を受ける必要があったのでしょうか。イエスにも悔い改めるべき罪があったのでしょうか。最初の弟子として身近で長く主イエスを見てきたペトロがこう語ります。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(Ⅰペトロ2:22-23)。マルコ福音書の冒頭に「神の子イエス・キリスト」と記すとおりです。
これこそ、洗礼者ヨハネとイエスとの押し問答の原因です。罪なきイエスが、なぜ「罪の悔い改めの洗礼」を受けるのかということです。それは、罪なきイエスが罪人と1つになるためでした。罪なきお方が、悔い改めを必要とする人間のすべての罪を、ここで担われたと言っていいでしょう。主イエスは「罪人」となったのです。主イエスは、悔い改めるべき人間のすべての罪をその身に負って、十字架で贖いをする救い主としての歩みを、ここから始めたのです。これが主イエスの洗礼の意味でした。
「水の中から上がると」と記されています。ヨルダン川の中に入って頭から水を注がれる形であったようです。主イエスの受けた洗礼は、キリスト教への加入式でも、ユダヤ教会への加入でもありません。主イエスは「生まれて8日目の割礼」を受けています。イエスの受洗は「悔い改めるべき罪人」となったしるしなのです。
すると、「すぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」。「ご覧になった」のは、イエスだけです。新共同訳の「“霊”」はおかしな翻訳の仕方です。「聖霊」、「御霊」と言葉で訳すべきです。この聖霊の働きと天からの声を見聞きできたのは、一人主イエスだけでした。洗礼者ヨハネも視認することは出来なかったと思います。
聖霊が鳩のような形を取って現れ、父なる神ご自身の御声がありました。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。ここに「父、子、聖霊」の三位一体の神が姿を現して、御子の活動に承認を与えているのです。罪人と一つになるイエスの洗礼、それは救い主の大切な出発点です。これから始まる活動のすべては、父と子と聖霊の三位一体の神全体の働きです。罪なき神の御子が、罪人のすべての罪を担い、救い主としての歩みをここから始めます。この主イエスの活動に目をこらして見つめてまいりましょう。