聖書=詩編1編1-6節
1 いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、
2 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5 神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
2024年、最後のショートメッセージです。旧約聖書・詩編第1編からお話しします。詩編第1編は150の詩編の中では最も新しい歌です。詩編の多くはユダヤ民衆の間で古くから歌われていた歌、神殿礼拝などで歌われた歌などが結集され、長い歴史の中で数回の編集過程を経て今日の形に成立し、最後の詩編第150編と共に、詩編の「序」として作られたのがこの第1編です。
この詩編は詩編全体を総括するものとなっています。神の教えを重んじ、主なる神を愛し、主の民として生きるようにと、読者を招いているのです。「いかに幸いなことか」と歌い出します。「幸い」と訳されたヘブライ語は「あなたは祝福されている」という意味の言葉で、単なる幸福ではありません。人が選択すべき人生の道、祝福される道は「神に従う道」なのだということです。
「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌われます。まず、神を信じない生き方、この世的、打算的な生き方をするな、ということです。単純な言葉ですが、これを「幸いだ」と言い切ることは容易なことではありません。現代社会では、大多数の人が神を無視し、物質的な豊かさを追求し、世的な名声を喜び、それらを得ることが幸せだと思い込んでいます。この詩編は、そのような人たちとの交わりに入るな、そのような価値観に染まるな、と戒めるのです。反時代的な生き方です。
それでは「幸いに生きる」ためには、どうすればいいのか。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」となることです。「主の教え」とは、神の言葉のことです。神の言葉をいつも新しく聞いて、神の言葉を聞く人々の交わりの中に留まりなさい、ということです。これが積極的なメッセージです。「口ずさむ」とは「口遊ぶ」とも書きます。神の言葉が、昼であれ夜であれ、フッと口を突いて出てくるような生活をしなさい。神との交わりを絶やさないということです。
この詩は、1つの風景画を描いて見せてくれます。幸いな人の幸いな光景が、一本の木として描かれています。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。「流れのほとりに植えられた木」は命の象徴です。
パレスチナの多くは荒れ果てた地です。ところが泉の湧くオアシスでは青々とした大きな木々が茂っています。根を地中深く張り、高く大きく枝を張っています。オリーブ、オレンジ、イチジク、ぶどうなどの木は果物が豊かに実ります。神を信じ、神の言葉を口ずさむような生き方をする人は、オアシスに根を深く張る木で、豊かな実りを稔らせる生き方をするのだと、歌っているのです。
このような幸いな人がいるでしょうか。むしろ、わたしたちは世の流れに流され、神の言葉から離れて生活しているのが現実です。「これは、どうもわたしではない」と思う。わたしたちは現実には「風に吹き飛ばされるもみ殻」のような生き方をしています。ある聖書の注解者は言います。「この木は、神の約束の光に照らされて見なければならない。実はこの木はナザレのイエスのお姿なのだ」と。
イエス・キリストの生涯を黙想して、この詩編を味わうと「ああ、本当にそうだなあ」と分かってきます。この詩編は、イエス・キリストの到来を予告し、イエス・キリストの姿を描いているのです。わたしたちには、この幸いに生きる資格はありません。しかし、わたしたちもこの幸いを心の底から歌うことが出来るのです。キリストに結ばれるところで、この命の木に接ぎ木され、命の祝福にあずかるのです。キリストから豊かに命の恵みをいただき、わたしたちも生き生きとした生き方が出来るのです。キリストに結ばれて、この幸いの歌を歌っていきましょう。