聖書=ルカ福音書2章28-32節
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、救い主イエス・キリストの到来を喜び祝う時です。この箇所は、幼子イエスを見たことを人生無上の喜びとして心から祝った老人の物語です。
わたしたちも、毎年、クリスマスを喜び祝いますが、この時をどれほど自分の生涯にとって大切な時と考えて迎えているでしょうか。わたしも自分の来し方を考え、身の処し方を考えねならない時期に差しかかっています。論語に「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。イエス・キリストの到来によって、わたしは確かにキリストにお目にかかった、もう思い残すことはない、いつ召されてもいい、と言い切れるだろうか、と考えさせられているところです。
ここに、シメオンという人が登場します。シメオンと幼子イエスとの出会いは幼子の誕生から8日目のことです。伝説では、シメオンはこの時、百歳を超えていたと言われています。腰も曲がり、力も衰えながら、しかし「信仰あつく」生きてきました。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というみ告げを頼りに生きてきた人です。クリスマスを取り巻く人々には、不思議に老人が多いのです。ザカリアとエリザベトも老人です。シメオンも、この後に出てくるアンナも老人です。クリスマスは、若者たちだけでなく、年老いた者たちにとり、確かな希望と豊かな慰めが与えられる時なのです。
シメオンは「"霊"に導かれて、神殿の境内に入った」と記しています。そこに、生まれてまもない赤ちゃんを大事そうに抱えた夫婦がやってきました。なぜ、この幼子がシメオンの目に留まったのか。なぜ、この幼児が「主の遣わすメシア」だと分かったのか。クリスマスを取り巻く事柄は不思議なことばかりです。聖書は「聖霊が彼にとどまり」「”霊”に導かれて」と記すだけです。シメオンはこの幼子に目を留め、母親から幼子を受け取ります。そして「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて」歌います。「ヌンク・デミティス」と呼ばれるシメオンの歌です。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます」。彼の思いはこの一言に集中します。もう思い残すことは何もないという言葉です。充足、満ち足りた。彼が百歳を超えるほど長生きをしたから、もう十分だということではありません。人生の目標を達成した満足なのです。人生の終わりを迎えようとしているこの時に、神が彼に約束された通り「この目であなたの救いを見た」からです。救い主である幼子を自分の腕の中に抱いた。彼の生涯はこの一瞬で満ち足りた。見るべきものを見、受け取るべきものを受け取った。彼の長い人生はこの一瞬のためのものでした。
クリスマスとは、キリストに出会い、キリストを抱く時です。「これで、わたしの人生、もう思い残すことはない」と言えるほどに大事な時です。彼は、幼子を抱くことによって人生究極の目的を得たのです。老シメオンは幼子を抱きます。生まれたばかりの赤ちゃんは、強く抱き締めたらつぶれてしまうような小さな命のかたまりです。この赤ちゃんを抱いて、シメオンは「わたしは安らかに去ることができる」と歌います。これがクリスマスの本当の喜びなのです。
なぜ、シメオンは、このように語ることが出来たのか。それは今、自分が抱いているこの幼子に、神が与えてくださる「救い」を見たからです。イザヤ書46章4節で「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と約束されている救いの到来を見たのです。自分が、このイエスに抱かれ、担われることを見い出したからです。
シメオンは、この幼子こそが自分の人生、自分の命を永遠に至るまで担ってくれるまことの救い主なのだと悟りました。そして、この幼子の中に「反対を受けるしるし」苦難を見ています。この幼子は、その苦難の生涯の中で、その苦難をもってシメオンだけでなく、わたしたち一人ひとりを担い、罪と苦悩から救い出してくださる救い主なのです。