聖書=詩編146編6b-10節
6 とこしえにまことを守られる主は
7 虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
8 主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
9 主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
10 主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
今回は旧約聖書・詩編146編6b -10節からお話しします。この詩編は「ハレルヤ詩編」の1つで、初めと終わりが「ハレルヤ」(主を賛美)でまとめられています。バビロン捕囚から帰還後の作品です。詩の前半(1-6節)は神賛美への招きと共に教訓詩的な側面が強く出ています。ここでは後半部分を取り上げますが、聖書をお持ちの方は全体をお読みくださるようにお願いします。
この詩編全体は神への礼拝賛歌となっています。「命のある限り」「長らえる限り」、生涯かけて、わたしは主を賛美しよう、ほめ歌おう、と歌います。主なる神を賛美することが、詩人の最も大事なこと、人生の目的であると歌うのです。
その中で、詩人は人間的な力への信頼を警告をします。「君侯に依り頼んではならない」と。「君侯」は、共同訳「諸侯」、新改訳2017「君主」で、支配者、貴族、指導者たちを総称する言葉です。どんなに力ある人であっても、鼻で息をする人間には人を救う力はありません。「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰る」存在で、永遠ではありません。不確かな人間に「信頼してはならない」のです。
詩人は、信頼すべきは「ヤコブの神」、「主なる神」、「天地を造られた神」であると歌います。主なる神を待ち望む人、神の助けを待つ者こそが「幸い」なのだと歌い、詩の終わり部分で「しかし、主は逆らう者の道をくつがえされる」と警告しています。この構造全体は教訓詩と言っていいでしょう。
詩の作者は、この構造の中で「神を待ち望む者の幸い」を具体的に歌い上げていくのです。先ず、6節後半「とこしえにまことを守られる神は」と歌い出します。5節では「ヤコブの神」という言い方もなされます。「契約に真実な神」を表します。神は、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約に忠実なお方です。この契約を憶えて、神は行動を起こし、イエス・キリストの到来となり、神の真実が形となり行為となるのです。
「虐げられている人のために裁きをし」と歌います。神は、高慢を退け、社会的に貧しく、弱く、虐げられた立場にある人たちの側に立っておられます。捕らわれた者に解放を与える救済者、社会的な弱者を守護する神となられたのです。
この主は「飢えている人にパンをお与えになる」お方です。古代社会では、飢えている人たちは放置されていました。ここには、福音書の中で描かれているイエスの姿を彷彿とさせます。二匹の魚と五つのパンを裂いて数千人の人たちに食物を与えられたイエスの姿が浮かび上がります。
詩人は「主は見えない人の目を開き」と歌います。障がいを持つ人も放置されていました。盲人の目を開かれたイエスの姿が描かれています。盲人の目を開かれたイエスの御業は、旧約で語られていたメシアの業なのです。「主はうずくまっている人を起こされる」。「うずくまる」を、新改訳2017は「かがんでいる者」と訳します。物乞いの姿です。イエスは物乞いする人たちの手を取って引き起こしました。
「主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる」。「寄留の民」とは助けを求める外国人のことです。「みなしご」とは保護者である親を失った孤児です。「やもめ」とは夫を失い行き場のない高齢の女性です。古代社会では、保護者を失った社会的弱者たちです。旧約聖書は、この人たちへ特別な配慮を繰り返し命じていますが、ほとんど顧みられませんでした。しかし、イエスはこの人たちの友となり助け主となりました。
この詩編で歌われ描かれている情景は、新約聖書のマリアの賛歌(ルカ福音書1:51-54)で歌われている世界です。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」。