· 

第271回 国を救うのは軍備に非ず

聖書=詩編33編16-18節

12 いかに幸いなことか。主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。

16 王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。

17 馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。

18 見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

 

 今回は旧約聖書・詩編33編16-18節を取り上げます。この詩編には序がありませんがダビデ歌集と言われる1つのまとまりの最後に置かれています。ダビデにこと寄せて、イスラエルの国の形成を念頭に置いての詩作なのではないかと思います。また多くの注解者は、この詩の用語と思想にはイザヤの影響が見られると記しています。皆さまもこの詩編全体を読んでみてください。

 この詩の作者は、預言者イザヤの思想を受け止めて、神賛美の詩の形の中で国の在り方を物語っていると言っていいでしょう。1-3節で、十弦の琴を奏でて新しい歌を主に向かって歌う神賛美へと誘います。4-7節で、神が御言葉によって天地を造られ、地は主の慈しみが満ちていることを歌います。8-11節で、全地は「主を畏れる」ことを求めます。主の御心こそが永遠に実現するのであり、主は諸国の民の悪しき企ては砕き挫かれる、と歌います。

 そして、詩人は12-15節で「主を神とする国」の幸いを歌うのです。「いかに幸いなことか。主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は」と歌います。主であるヤハウェを神とする国、主が御自分の民として選び分かたれた民、この国、この民が幸いなのだと語るのです。

 その理由は、13節「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧に」なっておられるからです。主なる神の暖かな眼差しが注がれていることを受け止めるのです。しかし、神の眼差しは決して神の民とされた人たちだけに注がれるのではありません。14節「御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる」のです。神はえこひいきをなさいません。「人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる」のです。神はすべてを見ておられます。

 そう歌った後で、詩人は「主を神とする国」の在り方の基本を物語ります。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない」と。「王の勝利」とは、1つひとつの合戦の勝利ではなく、国を建てる基本的な在り方のことです。共同訳は「王は軍勢の大きさによって救われるのではない」と訳します。「王」とは「国」を意味し、国は軍勢の大きさやその力によって救われるのではないと語るのです。

 詩人は、さらに「馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない」と続けて歌います。軍備によって国は守られないとする預言者イザヤの思想が力強く歌い上げられています。軍馬と馬が引く戦車は、古代オリエント世界で最強の武器でした。当時の世界の国々はアラビアやエジプトから競って軍馬を輸入していました。イスラエルとユダも例外ではありませんでした。今日のわたしたちの国、日本もアメリカから大量のミサイルや戦闘機を購入して、世界の軍事大国になろうとしています。

 しかし、この詩人は、これらの軍備によって国は救われるのではないと語り、主を畏れること、主の慈しみを待つことが、国を建てる道であると語るのです。「見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる」と歌います。

 わたしたちは国の安全保障に何を置くのでしょうか。この詩編の詩人は預言者イザヤの思想を受け止めて、軍備による国の安全保証ではなく、主を畏れる信仰、主の臨在、主の慈しみの助けをもって国を建てようとしているのです。今日の日本国憲法が目指している非武装の道と言っていいでしょう。詩人は、最後に「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが、我らの上にあるように。主を待ち望む我らの上に」と祈ります。国の安全保障は、軍備ではなく、神の恵みの支配の御手の中にあるのです。