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第268回 パンを食らう如くわたしの民を食らう

聖書=詩編14編4-7節

4  悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい、主を呼び求めるこ   とをしない者よ。

5 そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。

6  貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる。

7  どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう。

 

 今回は旧約聖書・詩編14編1-3節に引き続いて4-7節を取り上げます。この詩編の後半部分は社会的な不義と不正に対する厳しい告発状です。極めて今日的と言っていいでしょう。この詩人の訴えの言葉はハバクク書を思い起こさせます。必ず、神の厳しい裁きがあることを予見させます。

 今日の日本の政治家たちの姿を見たら、ハバクク書の時代を思い起こさざるを得ません。政権を握っている自民党の政治家たちは自分勝手を行い高慢が覆っています。弱い者たちのことなど顧みません。為政者は平和を口にしつつも軍備を増強し戦争を引き寄せています。民衆の生活苦にほおかむりし、貧しい人は重税に喘いでいます。裁判も為政者に忖度し、学者は御用学者となり真実を語りません。マスコミも真実を自由に語るべき報道に抑制をかけています。

 ハバククは、紀元前6世紀の末、南王国ユダの暴虐と不法、不正義と不公平が蔓延していた極限の時代に預言者として立てられました。彼は社会の現状に激しく怒り、その惨状を神に告発します。その結果、ハバククは神からの啓示を得て「見よ、わたしはカルデヤ人を起こす」と、神の審きであるバビロン捕囚を語り出します。

 詩の作者は訴えます。「悪を行う者は知っているはずではないか」と。「悪を行う者」とは国の指導者たちです。国の指導者たちは、庶民の生活の惨めな状況を知っているはずではないのか、何をしているのか、という告発の言葉です。どういう状況でしょうか。「パンを食らうかのようにわたしの民を食らう」状況です。これが国の指導層、上流階級の人たちの日常の姿だと言っているのです。

 「パンを食らう」とは、3度3度の食事、日常の生活です。指導層、上流階層の人たちは3度の食事をするように日常的に「わたしの民」つまり神の民を「食らっているのだ」と語っているのです。新しい共同訳では「わたしの民を食らい尽くし」と訳します。指導者層、上流階級の人たちは、徹底的に神の民である庶民を食い物にし尽くして驕った生活している。これが南王国ユダの末期の姿でした。これは最近の日本の国の惨状を示していると言えるのではないでしょうか。

 彼ら指導者たち、上流階級の人たちは異教徒でも異邦人でもありません。しかし、彼らは神を侮り、神を無視しています。詩人は「主を呼び求めることをしない者よ」と言って、神ご自身が貧しい者たちの味方であると、語るのです。

 詩人は「神は従う人々の群れにいます」と語ります。指導者たち、上流階級の人たちがむさぼり食い尽くしている民衆の側に、神はおられるのだと語ります。貧しさと悲惨の中から、神に泣き叫ぶ以外ない人の群れの中に「神はいます」のです。「貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず彼らの避けどころとなってくださる」のです。指導者たち、上流階級の人たちが貧しく苦しむ者たちの営みを萎えさせ挫折させても、主ご自身が「避けどころ」避難所となってくださいます。

 詩人は預言者のように指導者たち、上流階級の人たちに言います。「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい」と。共同訳は「彼らは恐れおののくことになる」と訳します。彼らの悪徳は神の怒りと裁きを受けることになります。預言者ハバククが語ったような捕囚の出来事を刈り取ることになるのです。

 しかし、この詩人は、神の怒りと審きの彼方にまで視線を移しています。それが最後の7節の言葉です。捕囚からの帰還という希望の言葉をもって終えています。「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」。