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第264回 人間は何ものなのでしょう

聖書=詩編8編4-7節

4  あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。

5  そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

6 神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、

7 御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。

 

 今回は旧約聖書・詩編8編からお話しすることとします。たいへん有名な詩編の1つです。この詩では多くの詩編が取り上げる「罪」や悲惨、神への嘆願は取り上げられていません。歌われているのは神の壮大な創造の世界と人間の弱小さです。

 序に「ダビデの詩」と記されています。実際に作者であるかどうかは不明ですが、少年期に大自然の中で羊の群れを飼っていたダビデを措定することもあながち無理なことではありません。

 「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」。この表現は、夜の大空にきらめく満天の星を見上げた人の実感と言っていいでしょう。都会では夜空を眺めても感動するようなことはありません。でも、キャンプなどで田舎に行き、自然の中で夜、草の上に寝転んで大空を仰ぐと「満天の星」です。暮れゆく夕映えの空をぼんやり眺めていると、いつの間にか無数の星が輝き出します。その時、この詩人と同じように「ああ、神がおられる」と実感するのではないでしょうか。

 天地を造られた神、太陽を造り、月星を造り、それらを精巧に絶妙に配置された壮大な神を実感するのです。天地、宇宙と言っていい。神の創造になるものですから永遠ではありませんが、人の命と比べるとはるかに永遠です。

 神の創造になる宇宙を見上げて、それらを造られた永遠の神を想います。そして、対照的に自覚されるのは「わたし」の弱小さです。罪の意識とは少し違う「弱さと小ささ」の自覚です。「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。壮大な天地、宇宙を形造られた神が、極めて弱く小さな「わたし」に目を留め、「御心に留め」、「顧みてくださる」。この不思議さに、詩の作者は圧倒されているのです。天地、宇宙と比べると、「わたし」は吹けば飛ぶような微少な存在、一瞬の存在です。

 「人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう」。これは詩人の率直な想いです。人は弱くもろい土塊(つちくれ)に過ぎません。今日、わたしたち人間はたいへん傲慢になっています。この地球の「主(あるじ)」にでもなったかのような傲慢さ、尊大さで大地のすべてを簒奪しています。宇宙を征服しようとしています。その結果、神の造られた世界を汚染し、いのちを奪い合い、破壊し尽くそうとしています。神の造られた世界が危機にあります。

 人は、弱小さの自覚を取り戻さねばなりません。人間の弱小さを自覚したところで、詩人は「人を顧みられる神」に導かれるのです。神の創造の目的の自覚です。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」。

 ここで語られていることは、人が「神の形」を担う存在として造られたことです。「僅かに劣るもの」とは「足りない」という意味を持ちます。神を離れて単独では足りない、十全ではないのです。しかし、神はこの人に「栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように」してくださったのです。弱小な人間の尊厳がここに示されているのです。

 人は、自分の弱さを知らねばなりません。土塊(つちくれ)から造られた弱い被造物です。しかし、この弱い人間に、神は「御手によって造られたものをすべて治める」ことを良しとされたのです。人は足りないものです。この弱小さを知って、神から離れず、神の御心に従って、この世界を謙虚に管理させていただくのです。