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第259回 わたしの魂はあなたを求める

聖書=詩編42編1-5節

【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】

2 涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。

3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。

4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う、「お前の神はどこにいる」と。

5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。

 

 今回は旧約聖書・詩編42編1-5節からお話しします。この詩編42編は、次の43編と一続きになっていますので42編、43編の全体をお読みください。この詩編は「嘆きの歌」に分類され、詩人は深い嘆きと悲しみの中にいます。

 印象的な比喩で始まります。パレスチナは灼熱の地です。喉の渇いた鹿が川辺に水を求めてやって来ます。しかし、その川は「ワディ」です。雨期に一時だけ水が流れ、後は干上がっている川です。喘ぎながら水を求めてやってきたが、一滴もありません。鹿は激しい息づかいをしています。

 それと同じように、この詩人は神を喘ぎ求めているのです。深い嘆きをもって神を求めています。水を求めてあえぐ鹿のように「わたしの魂はあなたを求めている」と語ります。神を激しく喘ぎ求めているのです。ヘブライ語で「魂、命」と訳される「ネフェシュ」は具体的に「喉」を指しているとのことです。人は絶えず空気を求め、水を求めます。それらを遮断されたら、すぐに死んでしまう弱い存在です。

 詩人にとって、神はそのような貴重な生命的存在です。生ける神、その神との交わりがなくなれば、すぐにも死んでしまう。詩人は、神との活ける交わりを求めて喘いでいるのです。喉が渇いている人が一滴の水を求めるように、詩人は神との命の交わりを求めている。「命の神」を求めて詩人の魂は渇望しているのです。

 「いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」。この詩は、バビロン捕囚によって捕らえ移された人々の中で生まれたものでしょう。この詩人の嘆きの根源が語られているのです。イスラエルの民全体が、神のみ前に罪を犯し、神の審きの結果、捕らえ移され、悔恨の涙の日々を過ごしているのです。痛切に生ける神との交わりの回復を祈り求めているのです。

 「人は絶え間なく言う、『お前の神はどこにいる』と」。これは捕囚の民となった者たちを罵る異邦の民の声です。この嘲笑とあざけりの声を聞く度に、涙を流す以外ありません。「 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」です。

 捕囚の地で涙する時に思い出すのは、かつて捧げた神殿における礼拝の情景です。「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」。この詩編の序に「コラの子の詩」と記されています。「コラの子」とは神殿聖歌隊を担ったレビ人たちを指しています。この詩の作者はバビロンに捕らえ移されたレビ人の一人ではなかったでしょうか。

 詩人は「魂を注ぎ出し、思い起こす」のです。罪と挫折の悔恨の中で、涙と共にもだえながら思い起こしているのです。かつての神殿礼拝の情景です。「喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」。これこそ、詩人が今、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」渇望していることなのです。

 神を礼拝することは、決して空虚な儀式ではありません。神を礼拝することは、生ける神との交わりのリアリティです。礼拝に集う多くの人たちの先頭に立って賛美を献げ、感謝の歌を歌い、ひれ伏して神を礼拝し、奉仕した。これこそ、自分の喜びであり、生きがいであった。しかし今、そのすべてが失われている。深い悔恨が、悔改めの思いがあったでしょう。詩人は、恵みの出来事を失って、その大きな祝福に気付いたのです。