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第256回 同行二人、主と共に

聖書=詩編121編1-2節

【都に上る歌。】

1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。

2 わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。

 

 今回から3回にわたって旧約聖書・詩編121編を取り上げます。今回は最初の1-2節です。この詩はわたしの大好きな詩編の1つで、神を信じる者の祝福と恵みが歌われています。序に「都に上る歌」とあり、巡礼の歌です。田舎の村から数人が1つの群れとなってエルサレム神殿を目指して歩いて行く。そのような折りに旅立つ者と送り出す者の掛け合いで歌われた交唱の詩です。

 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ」と歌い出されます。これから自分の村を離れて遠くエルサレムを目指して歩き出します。その時の「わたし」の想いです。ここで、わたしたち目をつむって、この言葉を聴くとき、どのような山々の姿が思い描かれるでしょうか。日本ではどこへ行っても緑の山が続いています。目を上げて周囲を見回せば青々とした山ばかりです。

 ところが、この詩人の置かれた状況は全く異なります。パレスチナで青々としている地域はガリラヤ湖の周辺だけで、ほとんどが禿げた山々、荒れ地です。エルサレムに行くには荒れ果てた地、荒々しい山々を越えていかねばなりません。これから行く道は、緑に囲まれたのどかな道ではなく、荒れ果てた山々で「太陽があなたを撃つ」「月があなたを撃つ」という過酷な道なのです。

 詩編121編は、全編を通して「わたし」、「あなた」という一人称単数で語られます。巡礼団という一塊ではなく「わたし」という一人の人間が対象です。神との関わりと言うよりも、神を介在とした祈り、祈られる者の関係です。送り出す者が「あなた」と巡礼に旅立つわたしに向けて語りかけているのです。このような神を介在にしての一対一の親しい関係がこの詩の特色です。

 詩編121編は、巡礼にこと寄せて、神を信じて生きる「わたし」の信仰の歩みが歌われているのです。神を信じて生きることは「人生、至るところに青山あり」というような生やさしいものではない。荒れ果てた山の尾根道を歩くような危険を伴う過酷なものだと、詩の冒頭から物語っているのです。

 しかし、禿げ山の尾根道を歩くような苦しみの中でも、巡礼に旅立つこの詩編の作者は「わたしには助けがある」と確信しています。「わたしの助けはどこから来るのか」とは、不安に満ちた問いではありません。確信の問いです。「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」と続きます。天地を造られた主なる神、このお方が、わたしの助け主であるという信仰の確信です。この詩編の詩人を活かしているのは「神、共にいます」という信仰です。

 皆さまは「同行二人」という言葉を聴かれたことがあるでしょうか。四国88個所を巡るお遍路さんがいます。お遍路さんたちは必ず杖をついています。「杖」には「同行二人」と焼き鏝で印字されています。たった一人で旅をしても、弘法大師が一緒の道行きであるという言葉です。わたしはたいへんいい言葉だなあと思っています。わたしたちの人生も「同行二人」なのです。「わたしの助け」主であるお方は、ただ見ているだけではありません。一緒に歩んでくださいます。天地を造られた神が、わたしの助け主として、わたしと歩みを共にしてくださるのです。

 神がモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト記3:14)と言われました。ただ「存在している」というだけのことではありません。モーセと「共に行く」ことを意味しているのです。「主」(ヤハウェ)という神の名は「わたしも、あなたと共に行く」という意味なのです。わたしたちの人生は、主なる神がわたしの助け主となってくださる。わたしの人生は主なる神との同行二人の旅路なのです。