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第232回 神の庭で過ごす一日

聖書=詩編84編11-13節

あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません。万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう。

 

 今回は旧約聖書・詩編84編の後半、11-13節から神のみ言葉を学びましょう。ここ歌われているのは「神を礼拝する者の幸い」です。わたしたちは、そしてあなたは、何を「幸い」として追い求めているでしょうか。人はだれしも「幸せになりたい」と願って、学びを続け、恋をし、家庭を作り、仕事に励みます。その中で、「わたしの幸せ」を見つける人もいるでしょうが、見つけることに失敗してしまう人も多いのではないでしょうか。

 それは、何に価値を見出し、生きる意味をどこに見出すかという価値観と生き方とに深く関わるからです。お金や財力、この世の出世などに価値と生きがいを見出すところでは、多くの失敗と挫折、失望を経験するのではないでしょうか。この世の成功物語の裏にはおびただしい悲惨な出来事、犯罪などのにがい物語があるのです。このような「世の幸い」とはまったく異なる幸いがあることに気付いてほしいものです。

 この詩編84編で歌われている「幸い」は、神を信じて生きる者の幸いです。ウェストミンスター小教理問答という信仰の手引きがあります。その最初に「人の主な目的は、何ですか」と問います。答は「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と記します。

 この詩編84編の作者にとって、人生の最高の目当て、最高の喜びは、神と共にあること、神と共に生きることでした。この詩の序文に「コラの子の詩」と記されています。「コラの子」とは、神殿に仕えるレビ人の一族です。この詩人は、長年にわたって神殿聖歌隊の一員として奉仕してきた人です。晩年になって、幼い時から神殿で奉仕し、神殿聖歌隊の一員として神を賛美してきたことを思い起こして、これを我が生涯の生きがい、喜び、幸いとして歌っているのです。

 今から、神の天幕に仕えるか、悪の天幕に仕えるかを選ぶというのではありません。もうすでに、長い間、神の天幕である神殿に仕えてきた。神の庭で過ごす一日は、幸いであったと実感しているのです。自分は、レビ人の一人として、生涯、神の幕屋・神殿で仕えてきた。生ける神を礼拝する場に身を置いてきた。この幸いを喜び、恵みとして受け止めているのです。

 「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます」。「主に逆らう者の天幕」とは、不信の異教徒とも、イスラエルの中の悪しき者とも理解できます。しかし、どんなに財的、物的に豊かであっても、どんな生き方をするよりも、神の家である神の幕屋・神殿での奉仕に生きてきたことに喜びを感じているのです。「神の家の門口に立つ」とは、最下級の奉仕である神殿の「門番」を指しています。この働きの方が、この世でのどんな成功よりも、はるかに幸いで生きがいがあると語るのです。

 「主は太陽、盾。神は恵み、栄光」とは、これらの言葉で、神の慈愛の暖かさと力強さ、祝福の豊かさが例えられています。そして、神に信頼する者に対して、神は良いものを拒まれないとの確信を歌っています。「完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません」と語ります。「完全な道を歩く人」とは、とかくすると完璧な生き方をする人と思われがちですが、まったく違います。新改訳2017では「誠実に歩む者」と訳しています。多くの欠けを持ちつつも、神の言葉に従って誠実に生きる人のことです。神は、このように生きる者の生涯を守り抜くお方であると歌っているのです。神は、神に従って生きようと願う者の生活を守ってくださいます。

 「主は、良いものを拒もうとはなさいません」。信仰者の幸いはここにあります。神を信じて歩む人の生涯は、世の多くの成功物語に比べて見劣りすると思うかもしれません。しかし、神は最善のものをもって支えているのです。そしてなにより、このように生きる者の生涯は永遠へと繋がっているのです。「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう」。この詩編の作者は、神に仕えて生きた自分の人生を振り返って「我が人生に悔いなし」と述懐しているのです。神を信じて生きた人の生涯の肯定の言葉です。