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第216回 朝ごとの祈り

聖書=詩編5編1-4節

【指揮者によって。笛に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。

 

 今回は旧約聖書・詩編5編1-4節から、神のみ言葉を聴いてまいります。この詩編は「朝の詩編」と言われています。4節に「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます」と記されているからです。この詩の作者はイスラエルの王ダビデであると記します。たいへん忙しい生活を過ごしています。とりわけ、この詩を造ったときは、息子のアブサロムの反乱に遭い、逃亡の途中であったと言われています。その多事多難の中でも、ダビデは朝ごとの祈りを欠かさないのです。

 わたしたちは、毎朝、神の言葉を聴き、祈りを献げています。先ず、朝、神に祈りを献げる。これが聖書が示す神を信じる者の基本的な在り方です。「神さま。おはようございます」と、神さまへのご挨拶と言ってもいいでしょう。一日の歩みを始める前に、わたしたちも神に祈りを献げてから始めましょう。朝ごとの祈りは、神を信じて生きるわたしたちの生活を支える大切な信仰の営みです。

 2節に、ダビデの祈りの言葉が記されます。「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください」。「朝ごとの祈り」と言えば、一人机の前に静かに正座して、聖書を読み、整った祈りの言葉を紡ぎ出すことだと考えるかもしれません。しかし、ここで語られている「わたしの言葉」は決して整った言葉ではありません。「つぶやきを聞き分けてください」と語るのです。ボソボソと語る「つぶやき」が祈りの言葉なのです。隣で聴いていても何を言っているのか分からない、かすかな「つぶやき」の言葉です。

 新改訳という別の翻訳では、同じところを「主よ。私のうめきを聞き取ってください」と訳しています。「つぶやく」ではなく、「呻きの声」と訳しました。きちんと整えられた祈りの文章ではありません。痛みや苦しみの中で、心の底からあふれ出てくる悲痛な叫び、呻き声です。これが「つぶやき」であり「呻き」なのです。4節では「わたしは御前に訴え出て」と言います。この詩人の祈りは神への訴えです。これが祈りなのです。

 ダビデは、あたかもかき口説くように神に求めているのです。神よ、どうか「耳を傾けてください」、「聞き分けてください」と求めるのです。今はもう、整えられた言葉を語ることもできない。心も乱れている。隣で人が聴いていても分からないようなつぶやきです。あーとか、うーとか言う呻き声に過ぎません。しかし、どうか神よ、わたしのこんな祈りに耳を傾けてください。わたしの呻き声の中から、わたしの心の中の真実の求め、訴えを聞き分けてください。聴き取ってください。そういう祈りなのです。

 「朝の祈り」というと、多くの人が誤解しています。いろいろな雑事を遠ざけて、静かに机の前に座って、聖書を読み、神との交わりとしての祈りの言葉を紡ぎ出すことと考える方が多いのではないでしょうか。このような静かな祈りの時を持つことを、わたしは否定はしません。すばらしいことです。しかし、このような整えられた祈りを一人静かに献げることのできる人は、恵まれた人だと申し上げる以外ありません。

 祈りは、わたしたちのつぶやきであり、呻きなのです。神よ、助けてくださいと、神に訴える言葉なのです。このような切ない祈りの言葉を、神は聞き分けてくださいます。わたしたちも朝ごとに、神に向かって、わたしたちの苦しい事情、つらい心の中を、きれぎれの言葉で訴えようではありませんか。神さまは、わたしたちの心の中から湧き上がる祈りの言葉に、しっかりと耳を傾け、聞き届けてくださいます。