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第209回 ガリラヤに行きなさい

聖書=マタイ福音書28章10節

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

 この個所は、週の初めの日、墓地で、婦人たちが復活のイエスと出会って驚き、喜んだ出来事の続きです。「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」続きです。生けるイエスにお目にかかった女性たちに、他の男の弟子たちへのメッセージが託されたのです。イエス復活の最初の目撃者は女性たちであり、キリスト復活のメージを最初に託されたのも女性たちであったことを忘れてはなりません。

 この時、男の弟子たちはどうしていたのでしょう。恐らく、ペトロとヨハネ、その他の使徒と言われた数人の弟子たちは、エルサレムの最後の晩餐をした家に戸を閉ざしてひっそり隠れていたでしょう。さらに多くの弟子たちは、まだ逃亡し身を隠していたのではないでしょうか。自分の故郷に逃げ帰る人たちもいました。

 イエス復活のメッセージを伝えた天使が、先ず婦人たちに言いました。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と。さらに、走り出した婦人たちに出会ったイエス自身が婦人たちに命じます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。

 復活のイエスにとって最大の関心事は、逃げ出し散らされた弟子たちのことでした。イエスが捕らえられた時、男の弟子たちは保身のため逃げたのです。ペトロだけがかろうじて踏みとどまりましたが、イエスを知らないと3度も否定する無様な姿をさらしました。人間的な言い方をすれば、男の弟子たちはすべて弟子失格となったのです。放り出されて当然です。しかし、イエスはこれらの弟子たちを決して見捨てません。失格の弟子たちをもう一度、集めよう。集めて、イエスの弟子として用いようとしているのです。

 復活のイエスは「行って、わたしの兄弟たちに」と言います。「お前たちは裏切り者だ」などと言いません。「わたしの兄弟たち」です。これは赦しの言葉です。心密かに後ろめたい思いを抱え込んでいた男の弟子たちは、婦人たちから伝えられたこの言葉に感動したのではないでしょうか。「こんなわたしたちを『わたしの兄弟』と呼んでくださる」と。

 「ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。ガリラヤでの復活のイエスと弟子たちとの会見が、マタイ福音書の特色であり頂点です。ガリラヤでの復活のイエスとの出会いは、すでにマタイ福音書26章32節で「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と、生前から語られていたのです。なぜ、復活のイエスはガリラヤに弟子たちを集めるのでしょう。

 ガリラヤ湖畔は、イエスが最初期の伝道をしたところです。イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いて福音を語り、この湖畔で多くの人を集め、弟子たちを召し、教育し、訓練したのです。山上の説教を語られたのもガリラヤ湖畔の山でした。ガリラヤ湖畔の街々で多くのしるしを行い、人々をいやしました。ガリラヤ湖畔こそ、イエスと多くの弟子たち、男の弟子たちだけでなく、婦人たちとの交わりも形造られた思い出深い場所です。

 ところが、イエスが捕えられ、十字架に架けられた時、多くの弟子たちはつまづき、逃げ去ってしまいました。弟子たちは今、つまずき、挫折し、傷つき、深刻な悩みの中にいます。イエスの弟子である自覚も、弟子としての使命も失われています。弟子たちの相互の愛と一致も失われています。このままでは一つの群れとしての形成は出来ません。福音宣教も出来ません。キリストの弟子として生きることも出来ません。

 復活のイエスは、そこで再びガリラヤに傷ついた弟子たちを呼び集めるのです。復活のイエス自身が、そこで彼らに出会って自身の復活の確かさを確信させ、死を超える希望を与え、信仰を新しくしてくださるのです。彼らが、はじめにイエスに召し出された場所で、初めの愛、初めの信仰、初めの使命に立ち戻らせていただくためです。

 わたしたちが、つまずき、失敗し、傷ついた時に、立ち戻るのはこの初めの愛、初めの信仰、初めの感激なのです。「ガリラヤへ行きなさい」とは、「初めのところに戻れ、初めの召しに戻れ」という意味なのです。そこで、復活の主は一人ひとりに出会って、赦しを与え、信仰を確かにし、召しに生きる者としてくださるのです。

 弟子たちはつまずきました。失敗し挫折しました。しかし、それで終わりではありません。復活したイエスは、つまずいた弟子たちを再び立ち上がらせてくださいます。イエスは繰り返し復活を予告していました。にもかかわらず、それを信じない不信仰な弟子たちを見捨てません。つまずき、逃亡し、散った弟子たちを再び立ち上がらせて、群れとしての教会を形成して、生命と喜びに満ちた復活の福音を宣べ伝えさせるのです。