· 

第206回 十字架を見守る婦人たち

聖書=マタイ福音書27章55-56節

またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 

 ここには、イエスの十字架を見守る大勢の婦人たちの姿と名前が描かれています。講解説教のような時には省かれてしまうところです。しかし、省略することの出来ない大切な意味を持つ個所です。4つの福音書には、イエスの生涯の目的である十字架と復活の出来事が極めて詳細に描かれています。特に十字架の出来事は、総督官邸からゴルゴダの処刑場までの道行きの出来事、十字架に付けられる前後の出来事、イエスの十字架上での言葉、強盗の一人に対するイエスの特別な取り扱いなど詳細に記しています。

 このような十字架を巡る出来事の詳細なリポートは誰がしたのでしょうか。皆さんは、そんなことを考えたことはないのではないでしょうか。福音書記者たちの創作でしょうか。決してそうではありません。イエスが裁かれ、十字架を担い、息を引き取り、葬られるまでをしっかり見ていた人たちがいたのです。それがイエスの弟子であった「大勢の婦人たち」でした。

 たくさんいたはずの男の弟子たちは、どうしたのでしょう。イエスがユダヤ教当局に逮捕された時、身の安全を図って「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ福音書26:56)のです。自分たちもイエスと同じように捕らえられると恐れて逃げ、身を隠してしまったのです。不甲斐ない男の弟子たちです。そのため、男の弟子たちはイエスの逮捕後の十字架の出来事の詳細についてほとんど知りませんでした。イエスの埋葬さえもしていません。

 まことに不甲斐ない男の弟子たちに代わって、多くの婦人の弟子たちがイエスの十字架と葬りの出来事をしっかりと見守り、記憶し、やがて男の弟子たちに伝えていったのです。4つの福音書の十字架と復活の出来事の詳細な記述は女性の弟子たちの報告なしには成立しないのです。やがて、これらの報告がまとめられて福音書の源となる原資料となっていったのです。

 この十字架を見守る婦人たちと重なり合うのが、生前のイエス一行の旅に随伴して支えていた婦人たちの存在です。ルカ福音書はこの女性たちの姿を描いています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ福音書8:1-3)。

 イエスと12弟子の旅の生活を経済的に支えていたのは、この婦人たちです。今日的に言えば、イエス一行の旅を支えるロジスティクスを担っていた婦人たちがいたのです。彼女たちは交代で、自分たちで費用を出し合ってイエス一行の旅の衣食の補給などを担っていたのです。この婦人たちこそが、ここで「ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々」と記されている人たちなのです。

 初代キリスト教会を力強く支えたのは、これらの婦人たちでした。初代教会の歴史である使徒言行録では女性たちの生き生きとした活躍が描かれています。ペトロの最初の説教で語られているあるべき教会の姿は、老若男女、すべての者に聖霊が与えられて預言する、神の言葉を語り出す教会でした。女性を差別しないイエスの姿勢、多くの困難を抱えて生きたマグダラのマリアをしっかりと受け止めていたイエスの度量の広さ、異邦人の女性と語り合うイエスの自然な振る舞い、これらが初代教会の形成の基本にありました。イエスの旅の日常の在り方が、以後の教会の在り方の基本になっていったのです。「執事」という教会の職制・役員の中に女性・婦人を用いたのです。「長老」と推測することも出来る教会の柱のような婦人も存在していました。

 ところが、初代教会後のキリスト教会は女性のことで大きく後退してしまいました。ローマ・カトリック教会がユダヤ教の祭司制に倣ってキリスト教会の司教制度・教会職制を整えてしまったのです。群れを治める監督・長老とは異なる職務であり、本来、長老と同格であって教会内外の貧しい人たちへの「奉仕」を担う「執事」の職務を、長老(司祭)の職務の前段階の「助祭」としてしまいました。男性中心の教会システムとしてしまったカトリック教会の在り方は、イエスの共同体の在り方から大きく逸脱してしまっているのです。

 今日、わたしたちの教会は、単なる女権拡張、フェミニズムという流れの中からではなく、福音書と使徒言行録などから本来の「イエスの共同体」を回復することが求められているのです。幼い者、病む者、弱さを持つ者、貧しい者、差別されている者などを、一人の人として取り扱い、赦しを与え、区別なく、等しく生かして用いる群れの形成をすることです。これは教会という群れの形成の原理であるだけでなく、この世界の中で生きるすべての人を見ていく視座でもあるのです。